•  フットパス活動の記録

フットパス専門家講座 多摩丘陵の12古街道フットパス③
2023.03.29

南大沢から多摩境へ、
縄文人がたどった交易の道・古代甲州道


[ 講師:古街道研究家宮田 太郎 ]

八ヶ岳・諏訪地方と繋がっていた祭祀場


3月29日(水) 天気:晴参加者:14名

 前回の「古代甲州道」の続きは、いよいよ、たった一つの小さな峠を越えることで、相模野と武蔵野を簡単に結ぶことが出来た「小山内裏峠」を目指しました。それは北向きの傾斜面(多摩ニュータウン側)において、大栗川の支流・大田川や大栗川に沿って多摩川や武蔵野まで真っ直ぐ下れるという特性があるからこその交通路の拠点だからです。
 今回の集合地である南大沢駅前を出てすぐに、遺跡調査の成果からわかった縄文集落群の分布図を、まず皆さんに見て頂きましたが、一様にびっくりされていたのが印象的でした。
 南大沢駅前のバスターミナルや大型スーパー、商店ビル一帯は、わが国を代表するかつての縄文時代遺跡の濃密なるエリアでした。ところが、どこを探してもそのことを知る解説ボードや案内板が一つもないのはなぜなのでしょうか。
 ーー済成長時代の大開発時には、遺跡の存在をとにかく消し去る風潮があったことは事実です。しかし、今やそれだけの遺跡群があった場所は、かえって何千年も大きな災害にあっていなかった、いわば壊れていない安全地帯であることを証明していることが認識される時代になったはずです。
 それを知れば、ここに暮らす現代の人々の心にも安らぎをもたらし、また土地への愛着が育まれるはずです。しかしながら、未だにその「負の遺産的考え方」のトラウマに支配されているのかと思うと、悲しい気持ちになるのは私だけでしょうか。
 膨大な遺物や調査データを、なぜもっと現代に活かすことができないのか、今と未来だけにしか生きていない現代人が住むエリアになってしまって良いものか…、ここには、開発時代の何かの圧力が残ることの意義は今や何もなく、むしろすでに幻と化しているのではないかーーと、いろいろ考えさせられます。
 さて、駅の西方には「輪舞(りんぶ)歩道橋」という、いわば交差点の上に、四方の道のどこへでも簡単に降りられる円形の歩道橋があり、この上から目の前の丘の瀟洒な南大沢住宅地の建物群を眺め、また「古代東海道の推定位置はあのあたりです!」と、一段低いところを走る線路から手前の尾根へ続く推定路を指さしました。


尾根緑道は戦時中は戦車の試験走行をしたところ
古代には「武相国境線」だったそうです

 さらに西側に進むと「赤石公園」という場所があり、かつてこの一帯が山林地帯だった百年前までは、この「古代甲州道」の峠越え直前の位置に道標代わりの赤い石(多摩川のチャート石か?)が置かれていたとも言われています。
 今では公園の片隅に、床面にタイル材で作られた付近の地図と、失われた赤い石の代わりに置かれた別の石が立てられています。公園を造った当時の設計士や地元の人たちが、たぶん何度も相談して決定したものだと想像するだけで、何だか温かな気持ちが伝わって来る場所となっているのです。
 そして“関東山”と呼ばれ命名由来不詳の最高地点の森(ここが内裏峠の一角)があり、そこを越えると尾根緑道に出ますが、“戦車道路”とも言われたその由来を示した解説ボードがあり、そこで本当に戦時中に戦車はここを走行したのかについて、様々な研究者の見解を自分なりの言葉でお伝えしました。
 さらに尾根緑道を進むと、トンネルとなった線路上あたりの山の中に奇跡的に残った「古代甲州道の推定遺構」があります。ーーといってもこの辺りが整備されることになった際に、公団側の担当者と私がこの道路遺構の保存について相談しました。工事はすでに設計段階を終えていましたが、かろうじて、遊歩道として舗装はされつつも最後の峠を上る傾斜面の地形や道路跡が、そのままの位置に残されたのは幸いなことでした。


これぞ縄文人も奈良時代人も越えた峠に残る「古代甲州道」

 その先、さらに皆さんと進んで、高台から相模野や丹沢など遠くを眺め、また、多摩境駅の駅舎の位置へ下って境川を渡り、相模原市域へと続いていた「片所古道(かたそこどう)」の位置も確認しました。他にも秩父の武将・畠山重忠の別荘があった伝説の丘、今はなくなった小山城跡のこと、古代の窯跡群や平安時代の木器製造場があった場所などの説明もしました。
 遠くに連なって見える雄大な丹沢山系の山々の中でも、ひときわ端の方(西端)にあって、古代東海道を行く人々や大山参詣の人々の目印となった「相模大山」のこと、縄文人たちが冬至の日没を観測するための目安になったと考えられている丹沢最高峰の「蛭(ひる)ヶ岳」の本来の意味などにも触れました。
 正に縄文人たちが、また古代の人々がこの峠越えのたびに、また日々の暮らしの中でとても大切にしてきただろう大いなるパノラマ景観が、今もそこにあるのです。
 フットパスの最後は、八王子から横浜に続いた「絹の道」の「浜見場跡」と最古の古道が眠る谷を上から眺めたり、道志渓谷の上質の鮎で将軍御用達になった「鼻曲がり鮎」を鮎担ぎ人が江戸城へ運んだ「鮎街道」の跡、古代の窯跡が眠る神秘的な「内裏公園」の森と池、そして縄文時代のストーンサークルといわれる復元遺跡「田端環状積石遺構」と続いて回りました。その遺跡のすぐ前の道路付近では、北海道の函館近くから出土した土偶に似た特徴を持つものが出土していることから、かつて縄文時代には北海道までも交流の道が存在した可能性もお話して、この日は終了しました。皆さんもこの峠道に溢れる歴史の豊富さにきっと感動してくださったのではないかと思います。


写真右手に未登録の塚?が見えますか?(鮎街道にて)


多摩境のストーンサークル(田端環状積石遺構)からは、
冬至の日に丹沢の蛭ヶ岳に夕陽が沈む様子が観測できる

(文と写真;宮田 太郎)

小山田内裏峠は八ヶ岳・諏訪地方と多摩地方を結ぶ交易の道だった


 多摩丘陵12古街道フットパスの第3回目、今回は京王相模線「南大沢」駅から「多摩境」駅周辺の「縄文人がたどった交易の道・古代甲州街道」の道を探索しました。
 八ヶ岳・諏訪地方から多摩丘陵を越えるには小山内裏峠が一番容易で、八ヶ岳や諏訪地方から黒曜石、ヒスイ、さらに縄文土器(勝坂式)などが伝えられ、大栗川に沿って東日本最大級の多摩ニュータウン遺跡群が見つかっています。
 小山内裏峠は「小山内裏公園」として整備されていますが、立ち入り禁止のサンクチュアリが大半を占めています。宮田先生によると「自然保護と同時に未発掘の場所の保護(遺跡、古道)のため」でもありますと。
 ここの戦車道(尾根緑道)は相模陸軍造兵廠で製造された戦車の走行テスト用として作られ、戦後しばらくの間、防衛庁が同様な目的でここを使用していました。
 午後は田端環状遺跡を訪ねました。縄文中期から晩期(約5000~2800年前)のいわゆるストーンサークルです。冬至には丹沢の蛭ケ岳山頂に陽が沈むなど宗教的な場であったと。また、この近くには、国内最大級の「南多摩窯業跡群」が見つかっていて、須恵器窯跡、粘土採掘跡や集落跡などの遺跡が発掘され、古代の手工業センター!?ですねと。
 次に、「浜見場」と呼ばれる高台から横浜方面を眺められ、元々の絹の道が通っていた道ですと、現在の絹の道は多摩ニュータウンの開発等で曲げられた道だそうです。
 小山内裏公園の「大田切池」、調節池の造成によって立ち枯れとなった杉の林立、北海道の有名観光地「青い池」と似ていますね。
 桜の満開の季節、天気も良く、気持のよい歴史フットパス、宮田先生の発見した古道など、いつもながらの詳細な資料と楽しいお話でした。

(文と写真:田邊 博仁)


尾根緑道の満開の桜とご参加のみなさま

2023.03.29 19:13 | 固定リンク | 未分類
他のまちのフットパスをみてみよう お花見しながら神楽坂をてくてく歩く
2023.03.24
[ 講師:田邊 博仁 ]

外濠の桜並木のお花見と、
神楽坂の街の成り立ちを知る


3月24日(金) 天気:曇参加者:8名



 飯田橋駅から「外濠公園」の満開の桜を楽しみ、神楽坂の街の成り立ちをご案内しました。
 ホームの改良工事と建替えられた飯田橋駅西口駅舎(2020年)。3Fテラスからの「牛込濠」と満開の桜の眺めが素敵でした。牛込見附門跡で、神楽坂の江戸防御の役目をご案内し、桜並木の外濠公園を歩き始めます。


牛込濠


外濠公園を歩く

 外濠公園から「東京日仏学院」へ。今年、旧アンスティチュ・フランセ東京から元の名へ。神楽坂には、あちら、こちらに隠れた階段や坂があり、パリのモンマルトルに似ているので神楽坂が選ばれ、多くのフランス人が住んでいます。神楽坂が、「リトルパリ」とも言われる所以です。


東京日仏学院内

 いよいよ「神楽坂若宮八幡神社」から「若宮公園」へ。ここで、神楽坂のはじまりと名の由来、江戸、明治、大正から昭和への街の変遷のお話を。そして、懐かしい銭湯「熱海湯」の入口へ。芸子さんも通った粋な歴史ある銭湯です。熱海湯横の細い階段は、「熱海湯階段」、「芸者小路」、「フランス坂」とも呼ばれ、神楽坂で一番有名な階段です。ここを登ると見番に出ます。田中角栄氏の建てた家で、ちょうど「神楽坂まつり」の稽古の三味線の音が聞こえ、角栄さんのいろいろなエピソードをお話しました。


芸者さんも通った粋な歴史ある銭湯「熱海湯」

 せっかくの神楽坂ですので、花街の雰囲気のある割烹料理屋さんでランチをいただきました。午後は神楽坂の中心の「毘沙門天善國寺」のお参りから再開。
 神楽坂唯一の高層ビル「アインスタワー(26F)」の真下にある「寺内公園」で、神楽坂の花街の歴史のお話を。また、漱石の若いころ、ここでの若い芸者さんとの甘酸っぱい思い出のお話もさせていただきました。
 そして、いよいよ神楽坂の花街へ。有名な居酒屋「伊勢藤」は創業昭和12年。震災で焼け、昭和23年再建の古民家です。隣の「森戸記念館」内に「神楽坂おかみさん会」による神楽坂の歴史や文化の紹介コーナーがありますので、見学をさせていただきました。昔の芸者番付表が目につきましたね。


東京を代表する居酒屋「伊勢藤」

 「伊勢藤」をはじめ、神楽坂の歴史的建築物(築50年以上)の分布の様子。「兵庫横丁」から「本田横丁」、「かくれんぼ横丁」の古民家を廻りました。


(資料:「神楽坂花街における町並み景観の変容と計画
的課題」松井、窪田、日本建築学会計画系論文集2012年
より)


物書き旅館として有名な「和可菜」のある「兵庫横丁」

 神楽坂の花街をご案内後、メインの神楽坂をぶらぶら下りました。残念なことに昨年11月に甘味所「紀の善」閉店、解体工事が行われていました。
 また、名画座の「ギンレイホール」も、11月に閉店してしまいました。飯田橋駅へ戻り解散いたしました。(文と写真:田邊 博仁)


ご参加のみなさまと

地図だけでは分からない神楽坂



 心配した天気も解散まで降られずに済み、すごく楽しい一日になりました。飯田橋駅は五十年以上前に毎日電車で通過した所ですが、永い時を経て周辺の景色が想像とはまったく異なっていました。飯田橋駅舎、周辺の高層ビル、[外濠公園]など私共には初めての所という印象です。
 神楽坂は十年ほど前一度だけぶらぶらしたことがあるものの、記憶は曖昧でした。


飯田橋駅

 駅前の外濠公園で満開の桜を観て、公園を抜け外堀通りを渡り神楽坂へ、坂を少し登るとすぐ日仏学院で、傾斜地を実にうまく使っていて、洒落た建物だと感じました。
 二次元の地図では分からなかったものが、坂や谷や入り組んだ小路を歩くと三次元の景色になり、更に今回は説明を聞くことで、歴史的背景等の情報が加わって四次元の景色になりました。
 おかげで今まで気付かなかったものが見え、他の場所との位置関係をも意識しながら見ることができました。
 牛込の名の由来、田中角栄と芸者の伝説、北原白秋など多くの文人が住んだ街、執筆活動が行われたとする旅館建物、夏目漱石も原稿用紙を求め、しばしば立ち寄ったという文具店、牛込氏の城跡だった「光照寺」などいろいろ知りました。


熱海湯階段


割烹料亭にてランチ

 最も印象に残ったのは「芸者小路」といわれる熱海湯階段で、箱庭の中を歩いている感じがしました。
 また、私達二人だけではなかなか入れそうにない「割烹加賀」での昼食は、落ち着いた個室で、ゆっくりできて、とてもラッキーでした。
 調査と資料の作成から実踏、そして実施まで、ガイドをしてくださった田邊さんは大変だっただろうと拝察します。誌上を借りて御礼申し上げます。
(文:伊藤 英俊・民江写真:田邊 博仁)
2023.03.24 19:40 | 固定リンク | フットパス
フットパス専門家講座 我がまちのフットパスを再認識する
2023.02.18

成瀬尾根緑地と八幡平遺跡公園から


[ 講師:高見澤 邦郎・浅黄 美彦 ]

3つの尾根を歩いて、違った眺めを楽しみました


2月18日(土) 天気:晴参加者:19名


 相模平野に向かって多くの尾根と谷戸を伸ばす多摩丘陵。そのうちの鶴川や玉川学園あたりは我が“みどりのゆび”のホームグラウンドでもあります。今回は「地元/学園・成瀬エリア」の尾根道を歩きました。学園前駅南口改札に集合後、まず「瓊宝(ぬぼこ)山本宮」へ。遙か昔、抜剣(ぬぼこ)山神社は岡山の山里にあったが社殿も祭祀も失われてしまったという。「ぬぼこ」の漢字を変えて、1933年に、開発されたばかりの学園の地に遷宮されたそうです。社殿は拝殿の奥にあり、小さいながら朱塗りの立派なもの。


竹林の参道、ぬぼこ山神宮

 お宮からさらに登ると赤瀬川原平さんの自邸兼アトリエの「ニラハウス」。路上観察学会を一緒に立ちあげた建築史家・藤森照信さんに設計を依頼し、多くの仲間も工事を手伝って完成。「ゆとりと温もりの空間創出」が評価され1997年に日本芸術大賞を受賞しました(赤瀬川さん、数年前に亡くなられ、屋根のニラポット、今はありません)。


ニラハウス 右端は薪を使った茶室

 東に成瀬駅や町田駅方面への眺めが広がる学園の尾根を少し行き、玉ちゃんバス(地元も運行に協力しているコミュニティバス)に乗車して成瀬台バス停まで、「歩き」をちょっと節約しました。
 バスを降りて東へ10分、成瀬尾根(都県境にある)に取りつく。樹林の中の緩い上り下りを南に辿ること30分、草原の吹上緑地に到着(この一帯の保整備は地元の「守る会」の皆さんが)。富士や南アは霞んで見えなかったけれど、丹沢から奥多摩への素晴らしい眺望を堪能。


玉ちゃんバスは “ハーイあっこです” 一家がデザインされている。
作者(みつはしちかこさん)が学園地域の住人だったので


尾根の成瀬緑道をのんびりと歩く、
畑もところどころに


吹上緑地で記念撮影 町田市街と丹沢の山々を背に

 10分ほど下って成瀬街道沿いの、赤瀬川さんもよく行ったという「上海公司」でランチ。美味しくて(特に豚の角煮とデザートの杏仁豆腐が)、しかも安いと皆さん大満足。ただ、ランチが長引いて、乗るはずだった1時間に1本の神奈中バスに間に合わず、恩田川沿いを歩くことに(この道はお花見の季節になると、川面に映える桜が素晴らしく、市外からも多くの人が訪れる)。


サクラの名所恩田川緑地を歩く

 バス停「熊野神社」を右に入って「稲荷山遺跡」、そして「牢場遺跡(覆屋の中に敷石住居跡が保存されている)」へ。さらに北の尾根に取りつき、急坂の住宅地を上がって「八幡平遺跡」へ。以上3つの遺跡(集落跡)は1924年から翌年にかけて発見された縄文後期のもので、国の史跡にも指定されています。八幡平遺跡は2年ほど前に公園化されていて、横浜方面への眺望がなかなかのもの。


八幡平遺跡からの眺望

 「学園尾根」、「成瀬尾根」、「高ヶ坂尾根」と三方からの眺めを楽しみ、我がまちの魅力を再認識することができました。さて、これで今日のコースはほぼ終わり。「芹ヶ谷公園」を経て町田駅まで歩き、解散。約2万歩の長いコースとなりましたが、良い天気にも恵まれたくさんの方々に参加していただき、感謝。

(文:高見澤 邦郞・浅黄 美彦 写真:田邊 博仁)

我がまちの小径の先に合った別天地


 この地域で育って四十余年。その我がまちでフットパスがあるとお聞きし参加しました。
 良く知る道を歩き、見覚えある小道に一歩、踏み入ってみたらその先は未知の別天地でした。住宅地のはざまにそっと存在する成瀬尾根。緑豊かな小道から見える宅地開発の年輪の面白さ、山吹緑地からの丹沢山系まで一望のパノラマビュー。
 まさに未知との遭遇でした。町田駅も近い八幡平の縄文遺跡から、今度は歩いてきた我がまちが見渡せる絶景。最後は子どもたちで賑わう「芹が谷公園」で解散。
 古代から現代まで人が憩う我がまちの、未知の魅力に気づかされた1日でした。

(文:渡辺 信輔)


芹が谷公園・ひだまり荘のつるし雛飾り(写真:田邊)


本日のフットパスコース図(作成:高見澤)

2023.02.18 14:01 | 固定リンク | フットパス
農と緑の管理
2023.01.15

小野路里山にお越しください。



 当会の緑地と竹林は、町田市北部の小野路宿と調布市布田五宿を結ぶ、江戸期からの布田道に接しています。道幅が狭いため車が殆ど通らず、騒音と無縁な豊かな自然に恵まれています。
 月1回の管理作業は、この里山を味わいながら行っています。皆さま、昔懐かしい里山を訪ねて、ぜひ散策にお越しください。またご興味あれば、当会作業日のお試し参加も歓迎します。

景観とタケノコ目的で竹林を整備

1月15日(日) 天気:曇 参加者:6名



 昨年9月竹林の管理活用について専門家講義を受け、そのノウハウを活用し竹林管理を強化して来たが、春に向けて一層の整備を進めた。
 枯れた竹や傾いだ竹を伐採し、適当な間隔を確保することで、健全な孟宗竹を育成しタケノコも出易い環境作りに励んだ。

2月26日(日) 天気:曇 参加者:8名



 今回は参加者が多いうえ、チェーンソーや刈払機も活用したので、不要竹伐採や灌木下草刈りの作業が大いに捗った。
 その結果、竹林は今迄とは見違えるほど美しくスッキリした。また切通し付近の整備により、人気ある景観も改善された。

3月19日(日) 天気:晴 参加者:7名



 緑地裏の山地を調査した。10年来ご無沙汰の裏山は倒木多く篠竹も繁って踏み跡すら見えず、ヤブ漕ぎして何とか頂部の小祠に辿り着いた。
 次は竹林に向かい、不要小竹の除去などを進めたので、竹林は広々と見通しが良くなり、気持ち良く整備された状態に仕上がった。

4月16日(日) 天気:曇 参加者:12名



 今日はタケノコ試し掘り。竹林は整備したが、肝心のタケノコが見つからず、探し回って何とか小さいのを含め15本程度掘り出した。
 タケノコは毎年豊凶交互の傾向が強く、昨年豊作の反動か、今年は凶作の模様。また小野路地区は何処でも、貧作との情報も得た。

4月23日(日) 天気:曇時々晴 参加者:23名



 年に一度のタケノコ祭。多くの会員やゲストの参加を得て、必要数のタケノコを確保し、タケノコ入り豚汁を囲んで大いに盛り上がった。
 このアウトド ア・ランチを楽しみにしている方方は多いし、布田道通行者も増えているので、今後とも整備は進めていきたい。

5月7日(日) 天気:雨 管理作業中止

 通常のタケノコが終わった後は、穂先タケノコが採れると聞いたが、凶作年ではタケノコを掘り尽くしており無理と判明した。
 また緑地草刈りは、4月からの道沿い個人刈りにより、当面は急いで草刈りをする必要がないため、5月は完全中止とした。

日常的な環境保全活動

6月18日(日) 天気:晴 参加者:10名

 11日が雨天順延され、布田道へ落ちそうな木枝や枯竹の撤去、オオブタクサ抜去等の緊急課題解決を優先して作業した。
 当面のリスクは排除出来ても、継続して発生する問題につき、今後とも状況を見守りながら適切に対応していく必要がある。

恵泉女学園大学の田植えに参加

6月10日(土) 天気:曇参加者:40名(当会3名+家族)

 新入生を中心とした学部職員あげての田植えに、当会からは会員3名が参加して、楽しみながら体験実践することが出来た。


田植え(写真:恵泉女学園大学)

(文:合田英興)

初めての田植え



 恵泉田圃で、田植えを初めて体験した。緑地奥にある田圃は苗床、うるち米、餅米用の3枚に分けられて美しく並んでいる。先ず苗床田圃で苗取りをした。相当に長い長靴で田圃に入り、苗を取ったら軽く泥をすすぎ、ワラで束ねる作業。やっているうちに体重で足が泥に嵌まっていき不安になる。右足踵から動かそうとした途端、長靴が抜けそうなってバランスが崩れ、ドロンコ第1号となった。
 その後は裸足になり田圃に入った。ヌルッとした感触が足裏で感じられ、田水の冷やっこさが意外に気持ち良かった。長靴より裸足のほうが泥に潜っていかないのも意外であった。
 当会Nさんは今年もお孫さんと参加され、元関係農家のMさんは学生と会話しながら、楽しそうに裸足で作業されていた。アッという間の楽しい一時であった。 (文:新納 清子 )

森林のフィトンチッドは人の心身もリフレッシュ



 3月。今日は気持ちの良い晴天。民家のお庭には色とりどりにツバキ、スイセンやスミレ。布田道に面した作業小屋のある広場では、先月のロウバイに変わり、大木のコブシやレンギョウがお出迎え。この場所はいつ来ても心地良い。
 今日は裏山調査で急傾斜を登る合田さんと別れ、私たち6名は脇道から初めて裏山へ分け入る。気分はワクワク “みどりのゆび探検隊” 。
 木々の根が階段状に張り出ているため、滑らないように気をつけて登ると、小さな古い小屋のある草地に出た。大人でも思わず駆け出したくなる気持ちの良い場所。仲間とヨガやティーパーティなどしたら楽しいことでしょう! と思いながら、合田さんの指示に従い奥の細い道を進むと、大きなカシ?の木のある美しい竹林が続く。さらに道を上りきると、祠のある眺望の良い場所に辿り着いた。
 合田さんと合流後、いつもの竹林まで下って前回の伐採竹の整理と一面の小竹の刈り取り作業。陽当たりの良い広場がつくられた。
 作業帰りにはヤマザクラや満開のヨウコウザクラも見事。この里山を歩く度に自然に魅せられ、 楽しみが増えて嬉しい。
 どうぞ皆さま、 森林浴においでください。
(文:松本 美津子)

今年もタケノコ祭がやって来た!



 昨年の9月に、竹林専門家の方のお話を聞いてから、竹を沢山切りました。神谷さんの呼び掛けで参加者が増え仕事もはかどりました。竹林には日がよく射し込み、風もよく通るようになり、サンショウはあちこちから生え、いつの間にかタラの芽も出ています。キンランやタマノカンアオイも静かに咲いています。
 タケノコ祭で嬉しいのは、普段はフットパスでしか会えない人と竹林で会える事です。タケノコ祭はタケノコを掘るのが目的ですが、この日は皆のお楽しみの日でもあります。
 まずはいつもの具がたっぷり入ったタケノコ汁、焼きタケノコ、タケノコの刺身 ( 特製木の芽ソース添え ) 、最近はこれに焼きリンゴが加わりました。今年は干し葡萄入りで、切り分けるとバターとシナモンがほのかに香り、ここでしか味わえない格別の一品で大人気です。
 焚き火では、焼きリンゴの他に除湿消臭に役立つお持ち帰り用の炭を焼きます。松ぼっくりは綺麗に焼け、今度は形がおもしろいレンコンの輪切りでも作る予定。試してみたい物があればお持ちください。一緒に炭を焼きましょう。
 今年はタケノコがあまり採れませんでした。来年は豊作でありますように。
(文:鈴木 由美子)


美しくスッキリした竹林(0206 写真:神谷)

  
タケノコ祭のタケノコ(写真:横山)とキンラン(写真:神谷)

 

 

タケノコ祭の楽しみ:
タケノコ汁、焼きタケノコ、
タケノコの刺身、焼きリンゴ
などを楽しむ参加者のみなさ
ま(写真:横山)


タケノコ祭に参加のみなさま(写真:神谷)
2023.01.15 21:35 | 固定リンク | 緑地管理
摩丘陵の12古街道フットパス②
2023.01.08

京王堀ノ内から南大沢へ 大栗川に沿う大街道“古代甲州道”

[ 講師:古街道研究家宮田 太郎 ]

東日本最大の複合遺跡群が眠る尾根の道


1月18日(水) 天気:晴参加者:18名



 地域の古道・古街道を訪ねるフットパスシリーズの今回は、「古代甲州道」を2回に分けての開催でした(堀之内編~南大沢編、南大沢~多摩境編)。
このテーマは、だいぶ以前から様々な講座でも紹介してきたものですが、大栗川に沿う南北方向の古街道=「古代甲州道」は、自分の故郷・旧多摩村を通る道だけに、特別な想い入れもありました。ただこの道の名称は昔から地元に伝えられていたものではなく、個人的に研究上だいぶ以前から分類のために呼称し始めたまま今も使っています。
 ーーそもそもなぜ大栗川流域に、「多摩ニュータウン遺跡群」が集中するのか、その謎やロマンを解くことが出来るのも、またこのルートの特性に注目することに始まるのではないかと思っています。大栗川に沿うエリアには3~6千年も前の縄文時代の遺跡がほぼ全体に広く分布しており、その集中度は日本一ともいわれるほどに濃密です。故に当時のニュータウンがあったとさえ言われる重要な地域にあたりますが、多摩ニュータウン遺跡の約千カ所を数える遺跡があることは、やはり古来の「往来の道」なくしてはありえないことで、しかもわずか一カ所の小さな峠を越えるだけで、いとも簡単に相模野と武蔵野が結ばれるポイントが多摩丘陵にあることが重要な意味を持っていると思います。
 この峠こそが多摩境の「内裏峠(だいりとうげ)」であり、縄文時代以来、甲州や信州諏訪湖地方と多摩地方を「東西の道」としてつないだ「縄文黒曜石ロード」であり、古代~中世~近世を通じて相模野から武蔵野を通って東北地方へと続いた「関東における南北方向の交通ルート」としても大いに役立ったはずです。
 また古墳群や中世武士の時代の遺跡や史跡、伝承地が今も沿線に沿って多数確認できることからも、長く使われてきたことが想像できるのです。
 今回のフットパスウォークでは、いつものように①コースや見どころポイント、短い解説メモを書き込んだ現代地図②古道・古街道を黒丸点で入れ込んだ明治時代の地図③「遺跡や史跡情報」④「自分なりの解釈」をA3資料10枚程度にまとめたものを、当日資料としました。
 ちなみに本来「フットパス」は地図以外の資料を使わなくても構いませんし、また歴史の話を聞くというよりは、自由にあるがままの環境をゆったり散策することが基本です。ただ最近では自然環境や人の暮らし方に加えて、さらに詳しく地域の開発ストーリーや歴史全般についても知りたいと希望される方が増えてきています。後でもっと詳しく知りたくなった時のことも想定して、資料だけは毎回工夫し、要点を楽しくお話ししています。むしろ昔のことを想像することで、脳内にとても健康上良い効果が得られることを実感してもらいたいーーそんなふうにも考えています。それは、たぶん参加される皆さんや私の中の脳内に、「見えないものを見る・想像するはたらき」や「DNAの中の悠久記憶(祖先の時代から受け継いだ記憶)」を司る部分があって、それらが相乗的に響き合い、その結果、“言い知れぬ懐かしさ”のようなものを感じたり、大切なものに再び会えたような…そんな感覚(=sense of wonderの一種)が現れ始めるのかも知れません。これらもまたいづれ脳科学で詳しく解明される時が来ることでしょう。
 さて、今回(1月)開催の京王堀ノ内編は、まさに「京王堀之内」駅の名前が示すように、中世武士の館跡と、それを囲む家臣たちの屋敷跡や複数の堀があったかというロマンに包まれています。


京王堀之内のせせらぎ緑道

特に鎌倉時代の「吾妻鏡」寿永元年(1182)にも記された別所地区の「蓮生寺」は、源頼朝の父・義朝の護持僧・円浄坊が義朝亡き後に来住して築いた寺であり、源頼朝が田畑を寄進したこともはっきりと書かれています。


蓮生寺公園内の吊橋

 今回のウォ―クでは、皆さんと寺の前の発掘調査について、鎌倉時代の鍛冶工房跡や舶載の陶磁器類が数多く見つかったことも話ししました。私も、若い頃にこの辺りを聞き取り調査したり、何度も探索したりした当時は、未だ多くの里山が拡がるエリアでしたが、大変ワクワクしたもので。近くの「多摩よこやまの道」には解説版も設置し、陶磁器の画像も掲載しました。
 街道としては、小山田桜台の神明神社の高台を南北に通る「奥州古道」がこの寺の前を通っていたことや、大栗川沿いの古代甲州道筋に出ることによって、源氏の父祖の代からの拠点だった百草山や、武蔵国府・府中にも続いています。
 また大栗川が中流域の由木地区で上流側に二つの川に分かれるその分岐点近くには、No.107番遺跡があり、室町時代の大石一族の大規模な屋敷跡や、その下に眠っていた古代の役所?の遺構群や大量の木工製品が出土しています。そこに「古代甲州道」の伝馬の駅家があったことで「馬継ぎ➡マツギ(松木)」地名やその名前の武士団がいたのではないかという、以前からの私の考えもお話しさせていただきました。
 近くには八王子の恩方にある「小野田城」の一族と思われる人物の館跡伝説があり、また有名な「滝山城」を築いた大石一族の伝説地や墓もあります。さらに後方の都立大の丘にあった「古代甲州道・尾根ルート」をたどりながら、次回の多摩境の内裏峠に直結する「谷戸越えルート」の魅力についてもお伝えしました。今回はまた皆さんとこの壮大なロマンの面白さを共有できたものと思います。


「あそこが野猿峠で、後方に見えるのは秩父の大岳山かな?」
(富士見公園・展望台にて)

(文と写真:宮田 太郎)

二つの宝篋印塔と古代甲州道



 今回の多摩丘陵12古街道フットパス②は、「京王堀之内」駅に集合し、せせらぎの緑道を通って、別所・「蓮生寺」の方へ向かいました。蓮生寺は、源義朝が平清盛に倒された後、義朝の御持僧・円浄坊が草創、源頼朝がこれを厚く保護したといわれているそうです。境内には、宝篋印塔という4、5メートルほどもある宝篋印陀羅尼が納められた石塔があり、これを礼拝することで罪障が消滅し、苦を免れ、長寿を得るとされたそうです。境内の背後の「蓮生寺公園」は、自然豊かなフットパスになって、展望台や吊り橋もあり、気持ちよく歩くことができました。
 午後のフットパスで印象に残ったのは、松木浅間神社に上がる中腹にある松木七郎宝篋印塔とその横にある祠内の仏像でした。祠の扉は閉まっていましたが、一部破れているところがあり、そこから覗くと四段のひな壇にびっしりと古い仏像が並べられていました。宮田先生によると江戸時代後期のものではないかということです。
 なお、「松木(まつぎ)」が「馬継ぎ」に由来するとすれば、多摩ニュータウン№107遺跡の役所跡や工房を含む駅家の存在と考え合わせ、大田川沿岸に「古代甲州道」の存在が考えられるということです。また、大栗川に沿う道は、道志川の鼻曲がり鮎を献上の品として江戸へ運ぶ鮎街道でもあったそうです。
 そのほか、「大石宗虎屋敷跡」などを経て、最後は「八幡神社」の市指定天然記念物のオオツクバネガシの古木を見て午後4時頃解散となりました。
 先生は、予定のコースを歩きながら、古いお寺や神社、古街道などにつき、ギャグなどを交えながら、おもしろおかしく説明してくださるので、普段はなにげなく通り過ぎるようなところでも、とても印象に残り、楽しいフットパスとなりました。(文:太田 建夫)


南大沢八幡宮にて、本日ご参加のみなさま(写真:田邊)
2023.01.08 22:39 | 固定リンク | フットパス