•  フットパス活動の記録

フットパス専門家講座 麻布・六本木の昭和モダン
2022.01.09
フットパス専門家講座
麻布・六本木の昭和モダン
[講師:浅黄美彦 塩澤 珠江]


変貌する飯倉・麻布台あたりを中心に
都心部のフットパスを歩く

 1月 9 日(日)天気:晴 参加者: 10 名

今回のフットパスは、「我善坊谷」を中心とした飯倉・麻布台の都心部を歩きました。 折しも「虎ノ門・麻布台再開発」が工事中で、スリバチ地形の名所のひとつが失われつつあり、このまちの魅力や記憶を伝えたいという思いから、二人の講師が異なる視点からこのまちを案内してみようという企画です。
 塩澤さんは、生活者の視点から、昭和
24 年から38 年間飯倉に住んでいた思い出の場所を訪ねながら、飯倉・麻布台のまちを語っていただきました。
 浅黄からは、1980 年代の初めに「東京のまち研究会」で歩いた麻布台のまち歩きの視点(地形と歴史から都市を読む東京の空間人類学)から、麻布台のことを話させていただきました。


桜田通り歩道橋から見る「我善坊谷」

麻布の台地に東から西へ細長い窪地が「我善坊谷」、江戸時代に組屋敷(下級武士の住まい)として開発された。周囲の高台には大名屋敷が配置され、明治以降高台は、郵政省・外務省施設、華族の邸宅などに転換し、その裏手の窪地に庶民の住宅が立て込むという、典型的な山の手の景観を示していました。我善坊谷の消失風景を眺めることからフットパスをスタートしました。


飯倉の旧居(吉田謙吉邸)を語る塩澤さん

桜田通りから入る路地の奥、崖際にあった「吉田謙吉 12 坪の家」、今はビルの中にある敷地を眺めながら、崖を上って「聖アンデレ教会」に行ったこと、職人の家が多かった路地のことなど、飯倉の思い出を聞かせていただきました。
 高台と窪地を結ぶのが坂、今回はいくつもの坂を巡りました。その内のひとつ「雁木坂」。塩澤さんからは飼っていたヤギを連れて雁木坂まできたエピソード、私からは昭和初期に近くに住んでいた島崎藤村が、「大東京繁盛記」で雁木坂について書いていたことを話させていただきました。坂の途中、路地に入ったあたりに喫茶店があったと参加者の合田さん。散歩の達人富田均さん、陣内秀信先生も雁木坂の喫茶店に触れていたことを伝えました。現地を歩き語ることで、今はない喫茶店の記憶を留めることができたような気がしました。


「雁木坂」

 高台と窪地を結ぶのが坂、今回はいくつもの坂を巡りました。その内のひとつ「雁木坂」。塩澤さんからは飼っていたヤギを連れて雁木坂まできたエピソード、私からは昭和初期に近くに住んでいた島崎藤村が、「大東京繁盛記」で雁木坂について書いていたことを話させていただきました。坂の途中、路地に入ったあたりに喫茶店があったと参加者の合田さん。散歩の達人富田均さん、陣内秀信先生も雁木坂の喫茶店に触れていたことを伝えました。現地を歩き語ることで、今はない喫茶店の記憶を留めることができたような気がしました。


麻布永坂の高級住宅地に佇む「高峰秀子・松山善三邸」

 外苑東通りを越えて、「狸穴坂」に入る路地を抜けると「藤村旧居跡」、さらに「植木坂」を上ると 「旧ブリヂストン美術館永坂分館」、「旧石橋邸」、「高峰秀子・松山善三邸」と白い建物が続く、高級住宅地を味わうことができます。
 「行合坂」を下り、蕎麦の更科三家のある麻布十番で昼食、「布屋太兵衛」で二色蕎麦をいただく。


「和朗フラット(スペイン村)」

午後は東麻布の谷道にある「狸穴公園」から「鼠坂」、「植木坂」を上り外苑東通リに出て西へ進むと伝説の イタリアンレストラン 「 キャンティ」 。その脇の小道を下り突き当りに「和朗フラット」が建っている。台地の中のちょっとした窪地にスペイン村と呼ばれる不思議な一画がある。もともとは大名屋敷で、昭和の初めアメリカ帰りの農業技術者上田文三郎が、西海岸で目にしたコロニアルスタイルに魅せられ、この土地を取得し、大工と相談しながら自らが設計し建てたという。コロニアル風の外観と日本の伝統的な長屋形式のプランのアパートが生まれた。まさに昭和モダンでした。

 紀州徳川家屋敷跡に建つ麻布小学校横の「行合坂」を上り六本木一丁目へ。かつての「住友東京別邸」、荷風の「偏奇館」のあった尾根道を東へ歩き、解体中の「ホテルオークラ新館」を残念がりつつ、新しくなったロビーで休み 「汐見坂下」の公開空地でゴールとし解散しました。
(文と写真:浅黄 美彦)

原風景はカケラになれども

 1949年、舞台美術家の父 吉田謙吉)が設計した 12 坪の家は、片流れの屋根に赤いペンキ塗りの外壁で、小さな舞台があった。戦前の閉塞感から開放された演劇人や画家、作家たちが毎日集まった。「雁木坂」を登り、郵政省、ソ連大使館を横目に見ながら麻布小学校に通う私はそんな大人たちの間で暮らし、結婚し、娘二人を育てた。
 1988年、都市開発の波がおし寄せ、我が家は町田へ。その飯倉を 33 年ぶりに歩いた。「芝給水場(通称水道山)」の崖下に建てたわが家はビルの一角になっていたけれど、水道山はカケラになって残っていた。子どもたちが台所の窓から出入りして、草花をつんだ山。八幡様の盆踊りでは父が太鼓を打った。「聖アンデレ教会」のバザーには外国人のピエロがやってきた。妹は「聖オルバン教会」で挙式。3系統の都電がゴトゴトチンチンと走る飯倉片町の交差点は、登り坂と下り坂が合流する不思議な地形で、脱線事故も起きた。我善坊町に住むお産婆さんを呼びに走り、姉弟たち 4 人をとりあげてもらった。カケラが次々と語りかけてくる。



謙吉手描きの引っ越し挨拶状
水道山も描かれている。

(文:塩澤珠江)
2022.01.09 21:47 | 固定リンク | フットパス