•  フットパス活動の記録

【緑地管理報告 5/5(日)】
2024.05.07
5月5日(日)晴れ 10時~12時 参加者9名

緑地、竹林整備、穂先筍の収穫と盛りたくさんの計画をしたのでわかれて同時に作業をする。

緑地は刈払機使いに慣れた人が一人で一気に整備。
物置小屋前や布田道沿いがスッキリとなった。

竹林上の段では一週間でビックリする位グーンと伸びた筍を切る。上の部分1m位の
ところをノコギリで切り落とし穂先筍として収穫した。

竹林下の段ではお礼肥をする。
私たちは化成肥料を選び20キロ分を奥の方まで一面にまいた。
20キロをビニール袋に小分けにして「昔話、花咲か爺さん」のようにしてばらまいた。
米糠は何ヵ所か穴を掘り埋めた。

太い竹の節を切ると奇跡の水と言われる竹水(ちくすい)が現れた。
まだ量が少なかったので飲めず、手の甲や肌につけてスベスベ感を味わった。

今年は豊作だった。そして穂先筍や竹水、お礼肥と初めての体験をすることが
出来た筍の季節もこれで一段落した。

(報告:新納清子)
2024.05.07 23:24 | 固定リンク | 未分類
他のまちのフットパスをみてみよう 異国情緒の横浜山手と元町を歩く
2023.06.04
[ 講師:田邊 博仁 ]


山手丘陵の尾根道と坂道を廻り、歴史を活かしたまちづくりを知る


6月4日 (日)天気:快晴参加者:9名


 女子中高生の利用が多く、“乙女の駅”の愛称のある「石川町駅」が今回のフットパスのスタート。目の前の中村川(堀川)が山下居留地と日本人居住地(元町)の境界で、1867(慶應3)年に背後の丘陵地に山手居留地が誕生。洋館、教会、ミッションスクールなどが相次いで立地しました。


石川町駅前の中村川

「大丸谷坂」を上がると、横浜の市街地を見下ろす丘の上の「山手イタリア山庭園」に出ます。
かって、「イタリア領事館(1880~1886)」がおかれていました。フランス瓦の屋根の「ブラフ18番館」と、とんがり屋根の「外交官の家」が横浜市に寄贈され、移築復元されました。水や花壇を幾何学的にデザインした庭園が見事です。


山手イタリア山庭園

 「山手本通り」から「桜道」を経て「山手公園」に出ます。生麦事件(1862(文久2)年)がきっかけで、外国公司団から安心してピクニックや馬の遠乗りが楽しめる場所が欲しいと要望があるも、江戸幕府では具現化せず、1869年(明治2年)に日本政府から貸与された土地が居留民により整備され、1870(明治3)年に「山下公園」が開園しました。「横浜山手・テニス発祥記念館」では4つの日本初の話をお聞きしました。①「日本初の西洋式公園」(1870(明治3)年)②「日本庭球発祥の地」(1876(明治9)年)③ヒマラヤスギが日本で初めて植えられた(1879(明治12)年)。④初代の「君が代」(1870(明治3)年)が日本で初めて演奏された。しかし、洋風の曲調で違和感があり1880(明治13)年に現在の曲へ改定。当時のファッション姿から、テニスは社交の場そのものだったことも知りました。


横浜山手・テニス発祥記念館にて説明していただく

 「山手公園」から「フェリス女学院大学」横の「ブラフ積擁壁」と「市の名木古木のタブノキ」の風情ある道を上がり、再び山手本通りへ出ます。


フェリス女学院横の風情ある道

 「カトリック山手教会」の歴史をお話し、フェリス女学院高校・中学横の汐汲坂を下り元町へ出て、お待ちかねのランチタイムです。


元町にてランチ(yokayo)

 午後は、「元町公園」から。フランス人ジュラールが、1868年頃から船舶向け給水事業や西洋煉瓦の工場を開設、関東大震災(1923年)で損壊。
市は土地の永代借地権を買い取り、1930(昭和5)年に「元町公園」とした。低地には湧水を利用した「ジュラールの水屋敷地下貯水槽」(国登録文化財)が現存。ウォーターガーデンを登り、「山手80番館遺跡」を見学、山手本通りの「エリスマン邸」、「ベーリックホール」の洋館で一休み。


元町公園のウォーターガーデン


元町公園のエリスマン邸

 山手本通り沿いには「山手234番館」。横道へ入り、「ブリキのおもちゃ博物館」「クリスマストイズ」のお店を楽しみ、華麗な洋館の姿をよく残している「山手資料館」を見学。居留地だったころから関東大震災までの横浜や山手に関する資料が展示されています。
 さらに、「港の見える丘公園」「フランス山」「アメリカ山庭園」を歩き、みなとみらい線「元町・中華街駅」にて解散いたしました。


山手資料館

(文と写真:田邊 博仁)

「異国情緒の横浜山手と元町を歩く」に参加して



 今回の舞台となった元町は、1980年頃、ハマトラファッションの中心地で何度か足を運んだ場所です。その影響か?ファッション関係の仕事に就き、直営店を出店した思い出の深い町です。そのような訳で今回のフットパスに大変興味を持って参加しました。
 参加してみて懐かしさに昔を思い起こすのではなく、新しい発見ばかりで大変感激し、楽しい一日となりました。
 遠く「横浜ベイブリッジ」や「みなとみらい21」を望む丘の上からの眺望。日本初の西洋式公園である山手の緑豊かな公園。横浜屈指の高級かつ閑静な大きな住宅。フェリス女学院など歴史あるミッションスクールやカトリック山手教会の建物。外交官の家やエリスマン邸など昭和初期の歴史的な数々の洋館。などなど見所が満載でした。
 もちろん歴史、地理、植物等の豊富な知識に裏付けされたお話を聞きながらです。
 また参加された方々と歩きながら楽しいお話もさせていただきました。
 フットパスの楽しさを満喫しました。NPO法人みどりのゆびの活動に参加し、いろいろなことを経験して見たいと思いました。
(文:伊藤 右学)


イタリヤ山からの眺望(写真:田邊)


エリスマン邸(写真:田邊
2023.06.04 21:05 | 固定リンク | 未分類
フットパス専門家講座 八王子の湯殿川流域フットパス
2023.05.30

[ 講師:古街道研究家宮田 太郎 ]

中世武士団・横山党と鎌倉一族の伝説地・古道を探索する


5月30日(火) 天気:晴参加者:12名



 今回は八王子市域でも高尾に近い「狭間(はざま)町」や「館(たて)町」の境を西から東に流れて南浅川に注ぐ「湯殿川(ゆどのがわ)」流域の歴史ロマンをテーマにしました。
 我がNPOみどりのゆびとはフットパス仲間として馴染みがある山形県の長井市ですが、近くに月山・羽黒山・湯殿山の出羽三山信仰の聖地があることは皆さんも知っている、あるいは聞いたことがあるのではないかと思います。その長井市も、八王子の横山党という鎌倉時代初期の武士団の跡地を継いだ長井氏が関わっていることは、あまり知られていないのかもしれません。
 今回はこの湯殿川に沿う丘陵を東の片倉城址(ここも長井氏の居城)方向に進み、途中の和田というバス停(片倉駅行き)まで、山林や畑が残る丘陵伝いに丘を含む約7kmをコースとして歩きました。


八王子、湯殿川の上流「上館親水公園」にて

 当日はJR「高尾」駅前に10時に集合し、駅北側の廿里砦跡(とどりとりであと:現在の森林総合研究所一帯)を眼前に見ながら、駅南側の古刹「大光寺(高尾山薬王院の本坊建物を移した本堂がある)」から初沢城址の下の高乗寺入口に進みました。この「高乗」という寺の名前も、横山党の滅亡後に大江広元という鎌倉幕府の重臣の一族である長井氏が遺領に入り、室町時代初期の子孫が片倉城主となったそうで、その人・長井(永井)高乗が創建したことからこの寺名がついたようです。
 その先には、前・天皇陛下ご夫妻も来られた
「みころも霊堂」と、隣接する「高尾天神社」に日本一の大きさの菅原道真像があります。この道真像は、急な階段を上らなくては近づけないので、ほとんどの方が階段下から仰ぎ見ましたが、作者は意外にも、江戸日本橋の銅製の麒麟像や獅子像、多摩市の聖蹟記念館の明治天皇騎馬像を製作した渡辺長男(おさお)氏で、大正天皇の御陵が決定した際に建立が計画されたものの関東大震災で一旦頓挫し、放置された時期を経て昭和11年頃に私費や寄付金を費やして完成したものだそうです。
 その先は、狭間の台地上にある大型スーパーでの昼食に向かいましたが、途中で車の往来の多い町田街道を越えました。この街道は、ずっと先の町田の商店街に続きますが、その原型である旧町田街道は、実は鎌倉時代の「鎌倉街道山ノ道」であり、秩父地方と原町田を結ぶ中世の大街道でした。その旧道は今は静かな住宅街の道になっています。尾根上にあるその旧道に出た時、ご参加の皆さんに向かって、「みなさん、ここは高尾駅にも近い場所ですが、この道が町田の駅前の小田急デパート脇の第一踏切に続いていますので、どうでしょう、今日はこの道の探索に変更して町田駅前まで行きましょうか~!」と話すと、一斉に「え~!」とか「遠すぎ~」とか笑いながらもはるか先の町田を見ている目に変わっていたのが印象的でした。
 川沿いには、横山党が平安時代末期に源氏の東北遠征に加わった際に奥州から持ち帰ったと伝わる、神秘的で美しい大日如来像が古いお寺の堂内にあります。また、鎌倉一族の権五郎景正を祀る御霊神社があり、戦国時代の小田原北条氏照の家臣で八王子城で討ち死にした近藤出羽守の館城(浄泉寺城)もあります。


親水公園から湯殿川の御霊神社に向かいます



鎌倉権五郎を祀る御霊神社,アオバズクが生息していてビックリ

 そもそも湯殿川の名前をここに移した?その本当の歴史はどのようなものだったのか…という謎解きのような思いが私の中にずっとあり、皆さんと歩きながら、そんな話もしながら、楽しく景色の良い丘の上の森や畑の道を探索しました。

 その湯殿川由来の謎を解くヒントは、およそ四つーー①源氏に従って出羽国まで遠征した鎌倉権五郎が出羽三山に立ち寄り戦勝を祈願。その親戚にあたる有名な梶原景時(母は横山党で元八王子に故郷がある)が、後に当地の川に名前を移した。②横山党が奥州での戦乱に出陣した際に、出羽三山の神域から大日如来を持ち帰った伝説があるが、それこそが真実である。③鎌倉~室町時代に活躍した大江氏族の長井氏が、出羽国の置賜郡に領地を持ったので、当地方の一族にも伝わった。④戦国時代の近藤出羽守が出羽国との縁を持ったことで、この名前が当地方の川にも付いたーーなどが考えられるのでは…とお話ししました。
 もちろんこれらの内のいずれが正しいのかは不明ですが、古い中世武士の時代の話なので、参加の皆さんにはちょっと難しい話になったかもと思いつつでもありました。
 また一帯が古代の馬牧があった?=平安時代の延喜9年(909年)の朝廷の直轄牧の記録に見える「立野牧」と「館(たて)町」の地名の関係性のロマンもあり、今にも馬が飛び出してきそうな丘の上の小径を歩けたことは、貴重な体験だったかとも思います。


古代の馬牧(立野牧?)があったかもしれない丘はとてものどかな場所

 また高台の南側で建設中の圏央道バイパスを眺めた際には、遠く御殿峠や野猿峠まで見える雄大な景色に、皆さん一様に目を細めつつ展望を楽しんでおられたようでした。


森を抜けた先の高台から見えたのは
「圏央道バイパスの工事現場」でした



何とも贅沢なフットパスでした




 今回歩いたのは、高尾山の麓に源を発し、八王子市の西部を東に流れて多摩川につながる湯殿川(ゆどのがわ)という小河川の流域です。高い段丘崖に画された谷間のようなところですが、頂いたマップによると古くから多くの街道が交錯する交通の要地であったようです。現在もJRや京王線に近くて都市化が著しいですが、周囲の山々や丘陵地はほとんどが鎌倉武士団や戦国北条氏などにより城塞化された歴史があります。
 前日は空模様を心配しましたが、当日は雨上がりの爽やかな空気の下での景観の中を歩くことができました。宮田先生の該博な知識に基づく解説を聞いていると、ちょっとした地形の変化や細い道も歴史的な意味を持ち、想像が一気に鎌倉時代や戦国時代の過去に飛びます。何とも贅沢なフットパスでした。
 今回のテーマである横山党は平安末期から鎌倉時代前期にかけて八王子市・町田市を中心に大きな勢力を誇った武士団で、この付近はその本拠があった場所です。大河ドラマの「鎌倉殿の13人」には含まれませんが、和田義盛の乱に加担して北条義時に滅ぼされたため歴史から姿を消しました。では横山党がこの地に残したものはあるのでしょうか?そもそも「湯殿川」という奇妙な名称は何に由来するのでしょう?また、流域にある「御霊(ごれい)神社」の祭神・鎌倉権五郎景正は東北が舞台であった前九年の役(平安末期)のころの武士ですが、なぜここに伝承が残っているのでしょうか?
 こういった様々な謎に対して宮田先生は大胆な説明を試みます。鍵となるのは、出羽三山湯殿山(ゆどのさん)の大日如来信仰との関係です。前九年の役に従軍した横山党や鎌倉氏一族が信仰を持ち帰り、この地に根付かせたのではないか…。
 最後に訪れた「龍見寺大日堂」の大日如来像(東京都重要文化財)は、直接拝観することはできませんでしたが、端正なお顔は写真からでも何かを語りかけてくるようでした。帰りのバス停の近くにも大日如来と思われる智拳印(ちけんいん)を結んだ古い石仏があり、印象的でした。
(文と写真:森 正隆)


湯殿川親水公園  龍見寺大日堂

2023.05.30 14:59 | 固定リンク | 未分類
フットパス専門家講座 多摩丘陵の12古街道フットパス③
2023.03.29

南大沢から多摩境へ、
縄文人がたどった交易の道・古代甲州道


[ 講師:古街道研究家宮田 太郎 ]

八ヶ岳・諏訪地方と繋がっていた祭祀場


3月29日(水) 天気:晴参加者:14名

 前回の「古代甲州道」の続きは、いよいよ、たった一つの小さな峠を越えることで、相模野と武蔵野を簡単に結ぶことが出来た「小山内裏峠」を目指しました。それは北向きの傾斜面(多摩ニュータウン側)において、大栗川の支流・大田川や大栗川に沿って多摩川や武蔵野まで真っ直ぐ下れるという特性があるからこその交通路の拠点だからです。
 今回の集合地である南大沢駅前を出てすぐに、遺跡調査の成果からわかった縄文集落群の分布図を、まず皆さんに見て頂きましたが、一様にびっくりされていたのが印象的でした。
 南大沢駅前のバスターミナルや大型スーパー、商店ビル一帯は、わが国を代表するかつての縄文時代遺跡の濃密なるエリアでした。ところが、どこを探してもそのことを知る解説ボードや案内板が一つもないのはなぜなのでしょうか。
 ーー済成長時代の大開発時には、遺跡の存在をとにかく消し去る風潮があったことは事実です。しかし、今やそれだけの遺跡群があった場所は、かえって何千年も大きな災害にあっていなかった、いわば壊れていない安全地帯であることを証明していることが認識される時代になったはずです。
 それを知れば、ここに暮らす現代の人々の心にも安らぎをもたらし、また土地への愛着が育まれるはずです。しかしながら、未だにその「負の遺産的考え方」のトラウマに支配されているのかと思うと、悲しい気持ちになるのは私だけでしょうか。
 膨大な遺物や調査データを、なぜもっと現代に活かすことができないのか、今と未来だけにしか生きていない現代人が住むエリアになってしまって良いものか…、ここには、開発時代の何かの圧力が残ることの意義は今や何もなく、むしろすでに幻と化しているのではないかーーと、いろいろ考えさせられます。
 さて、駅の西方には「輪舞(りんぶ)歩道橋」という、いわば交差点の上に、四方の道のどこへでも簡単に降りられる円形の歩道橋があり、この上から目の前の丘の瀟洒な南大沢住宅地の建物群を眺め、また「古代東海道の推定位置はあのあたりです!」と、一段低いところを走る線路から手前の尾根へ続く推定路を指さしました。


尾根緑道は戦時中は戦車の試験走行をしたところ
古代には「武相国境線」だったそうです

 さらに西側に進むと「赤石公園」という場所があり、かつてこの一帯が山林地帯だった百年前までは、この「古代甲州道」の峠越え直前の位置に道標代わりの赤い石(多摩川のチャート石か?)が置かれていたとも言われています。
 今では公園の片隅に、床面にタイル材で作られた付近の地図と、失われた赤い石の代わりに置かれた別の石が立てられています。公園を造った当時の設計士や地元の人たちが、たぶん何度も相談して決定したものだと想像するだけで、何だか温かな気持ちが伝わって来る場所となっているのです。
 そして“関東山”と呼ばれ命名由来不詳の最高地点の森(ここが内裏峠の一角)があり、そこを越えると尾根緑道に出ますが、“戦車道路”とも言われたその由来を示した解説ボードがあり、そこで本当に戦時中に戦車はここを走行したのかについて、様々な研究者の見解を自分なりの言葉でお伝えしました。
 さらに尾根緑道を進むと、トンネルとなった線路上あたりの山の中に奇跡的に残った「古代甲州道の推定遺構」があります。ーーといってもこの辺りが整備されることになった際に、公団側の担当者と私がこの道路遺構の保存について相談しました。工事はすでに設計段階を終えていましたが、かろうじて、遊歩道として舗装はされつつも最後の峠を上る傾斜面の地形や道路跡が、そのままの位置に残されたのは幸いなことでした。


これぞ縄文人も奈良時代人も越えた峠に残る「古代甲州道」

 その先、さらに皆さんと進んで、高台から相模野や丹沢など遠くを眺め、また、多摩境駅の駅舎の位置へ下って境川を渡り、相模原市域へと続いていた「片所古道(かたそこどう)」の位置も確認しました。他にも秩父の武将・畠山重忠の別荘があった伝説の丘、今はなくなった小山城跡のこと、古代の窯跡群や平安時代の木器製造場があった場所などの説明もしました。
 遠くに連なって見える雄大な丹沢山系の山々の中でも、ひときわ端の方(西端)にあって、古代東海道を行く人々や大山参詣の人々の目印となった「相模大山」のこと、縄文人たちが冬至の日没を観測するための目安になったと考えられている丹沢最高峰の「蛭(ひる)ヶ岳」の本来の意味などにも触れました。
 正に縄文人たちが、また古代の人々がこの峠越えのたびに、また日々の暮らしの中でとても大切にしてきただろう大いなるパノラマ景観が、今もそこにあるのです。
 フットパスの最後は、八王子から横浜に続いた「絹の道」の「浜見場跡」と最古の古道が眠る谷を上から眺めたり、道志渓谷の上質の鮎で将軍御用達になった「鼻曲がり鮎」を鮎担ぎ人が江戸城へ運んだ「鮎街道」の跡、古代の窯跡が眠る神秘的な「内裏公園」の森と池、そして縄文時代のストーンサークルといわれる復元遺跡「田端環状積石遺構」と続いて回りました。その遺跡のすぐ前の道路付近では、北海道の函館近くから出土した土偶に似た特徴を持つものが出土していることから、かつて縄文時代には北海道までも交流の道が存在した可能性もお話して、この日は終了しました。皆さんもこの峠道に溢れる歴史の豊富さにきっと感動してくださったのではないかと思います。


写真右手に未登録の塚?が見えますか?(鮎街道にて)


多摩境のストーンサークル(田端環状積石遺構)からは、
冬至の日に丹沢の蛭ヶ岳に夕陽が沈む様子が観測できる

(文と写真;宮田 太郎)

小山田内裏峠は八ヶ岳・諏訪地方と多摩地方を結ぶ交易の道だった


 多摩丘陵12古街道フットパスの第3回目、今回は京王相模線「南大沢」駅から「多摩境」駅周辺の「縄文人がたどった交易の道・古代甲州街道」の道を探索しました。
 八ヶ岳・諏訪地方から多摩丘陵を越えるには小山内裏峠が一番容易で、八ヶ岳や諏訪地方から黒曜石、ヒスイ、さらに縄文土器(勝坂式)などが伝えられ、大栗川に沿って東日本最大級の多摩ニュータウン遺跡群が見つかっています。
 小山内裏峠は「小山内裏公園」として整備されていますが、立ち入り禁止のサンクチュアリが大半を占めています。宮田先生によると「自然保護と同時に未発掘の場所の保護(遺跡、古道)のため」でもありますと。
 ここの戦車道(尾根緑道)は相模陸軍造兵廠で製造された戦車の走行テスト用として作られ、戦後しばらくの間、防衛庁が同様な目的でここを使用していました。
 午後は田端環状遺跡を訪ねました。縄文中期から晩期(約5000~2800年前)のいわゆるストーンサークルです。冬至には丹沢の蛭ケ岳山頂に陽が沈むなど宗教的な場であったと。また、この近くには、国内最大級の「南多摩窯業跡群」が見つかっていて、須恵器窯跡、粘土採掘跡や集落跡などの遺跡が発掘され、古代の手工業センター!?ですねと。
 次に、「浜見場」と呼ばれる高台から横浜方面を眺められ、元々の絹の道が通っていた道ですと、現在の絹の道は多摩ニュータウンの開発等で曲げられた道だそうです。
 小山内裏公園の「大田切池」、調節池の造成によって立ち枯れとなった杉の林立、北海道の有名観光地「青い池」と似ていますね。
 桜の満開の季節、天気も良く、気持のよい歴史フットパス、宮田先生の発見した古道など、いつもながらの詳細な資料と楽しいお話でした。

(文と写真:田邊 博仁)


尾根緑道の満開の桜とご参加のみなさま

2023.03.29 19:13 | 固定リンク | 未分類
フットパス専門家講座 懐かしみながら最近人気再燃気味の江ノ島を歩く
2022.03.19

[ 講師:浅黄美彦]

観光地、門前町、漁師町、遠足の地など様々な顔を持つ江ノ島を楽しむ

10月22日(土) 天気:曇参加者:10名

 小田急江ノ島線「片瀬江ノ島」駅前に午前10時集合。2020年に改築されたばかりの駅舎は、1929年の開業当初に建てた竜宮城風の外観を継承して旅心をくすぐります、早速駅舎の前で記念撮影(集合場所がいいとワクワク感が高まるのかもしれません)


小田急片瀬江ノ島駅前にて記念撮影

<片瀬江ノ島駅からカトリック片瀬教会> 和風の教会とそれに至る道(パス)。
 最初に訪ねるのは、「カトリック片瀬教会」。片瀬江ノ島駅から北へ歩くと旧片瀬村の山本家による昭和初期の別荘分譲地。そこを5分ほど歩くと、「境川」の畔に和風の聖堂があります。


カトリック片瀬教会外観

教会の創始者・元海軍少将山本信次郎氏が、1939年日中戦争下に建てた教会です。格天井とフレスコ画が併存している不思議な内部空間に魅せられます。


教会の内部

 川沿いの心地よい遊歩道を河口まで下ります。町田市相原の源流から江ノ島に流れ込む「境川」の流路を体感したような気分です。

<江ノ島弁天橋から湘南港ヨットハウス> 波打つ屋根の現代建築を訪ねる。
 「江ノ島弁天橋」を渡るといよいよ「江ノ島」。
青銅の鳥居をくぐり、まっすぐに参道を進めば王道の江ノ島観光となります。今回は少し寄り道して島の北端にあるヨットハーバーを訪ねてみました。2014年に改築した「湘南港ヨットハウス」は、波打つようなシンボリックな屋根をもつ現代建築です。東京オリンピックのセーリング競技の拠点でもありました。内と外が曖昧な2階のスペースからカッコイイ階段を上ると、津波避難施設を兼ねた屋上でした。


中津宮から見た湘南港ヨットハウス


湘南港ヨットハウスの内部

<湘南港ヨットハウスから集落の道> 集落の細道と路地を歩く。
 ヨットハーバーの真っ白い透明感のある現代建築から、島の北側の崖下にある集落の細道を参道に向かって歩く。漁村の集落構造が残る島の日常生活を感じることができる道を歩くのも悪くない。細道から崖に向かって延びる路地は迷路のようでした。

<弁財天仲見世通りから江ノ島神社、サムエル・コッキング苑> 観光地を歩く。
 さてさて、片瀬江ノ島駅から寄り道を重ね、「弁財天仲見世通り」の入口「青銅の鳥居」にたどり着く。参道の店で求めた女夫(めおと)饅頭を食べ歩きしながら、さらりと王道の観光地を流し、脇にある伊東忠太設計の大正期に建てられた「児玉神社」を見る予定でしたが、残念ながら工事中で断念。
 気を取り直して坂道を上り「サムエル・コッキング苑」を目指します。
 島のてっぺん、本来ならば神聖な場所のような気もしますが、そこになにゆえ洋風庭園があるのかという素朴な疑問に、「明治初期、グラバーのような武器商人が巨万の富を得て、神仏習合の解体でゆれる神社から土地を取得し、庭園付きの大別荘をつくる」という容赦のない解説が資料館の映像で答えてくれました。


江ノ島集落の道


シーキャンドル(展望台)からの眺望境川河口あたり

 昼食はサムエル・コッキング苑内でのお弁当組と、海の見える「海花亭」で名物のシラスかき揚げ丼のグループに分かれて。
 午後は「奥津宮」でお参りし、「稚児が淵」に下りる石段からの富士山の眺めを堪能しつつ、江ノ島の最深部「岩屋」へ。初めての方、小学生の遠足以来半世紀ぶりの方などさまざまでしたが、結構楽しんでいただけたようでした。フットパスコースに観光地の王道の場所を入れるのも悪くないという感想もいただき、解散としました。
(文と写真:浅黄美彦)


見晴亭からの富士山     江ノ島の岩屋

グルッと江ノ島を巡って


 小田急線「片瀬江ノ島」駅を出ると,駅前を「境川」が流れています。この境川は町田市相原辺りに源流があると説明があり、「あの町田市と相模原市の境を流れている川が……」と、元町田市民の私は見慣れた景色を思い浮かべ、江ノ島を身近に感じたことでした。
 午前中は主に建物(木造和風造りの教会や「湘南港ヨットハウス」など)を、午後は観光地としての江ノ島(江島神社群や「サムエル・コッキング苑」、展望台など)を巡りました。
 コッキング苑では明治の頃の異国風の花壇遺稿が保存され、また源頼朝が寄進したと伝わる鳥居のある3つの「江島神社群」の1つが放送中の大河ドラマにも関連するからか、若い人から家族連れまで予想以上の賑わいでした。
 当日は明るい湘南のイメージと違って、日が差さず海風が強い一日でした。そんな中で賑やかで大勢が集まっている場所が。なんとそれまで気づかなかったのですが、「富士山」が霞んで見えるのです。やはり富士山って特別ですね! この富士山に見守られながら、潮風が香る江の島をグル
ッと楽しみました。
(文:新納清子)

2022.03.19 15:14 | 固定リンク | 未分類