•  フットパス活動の記録

フットパス専門家講座 赤坂の星岡と紀尾井町の奥州古街道・
2022.04.24
フットパス専門家講座 赤坂の星岡と紀尾井町の奥州古街道・歴史ロマン探索

[ 講師:古街道研究家宮田太郎]

赤坂日枝神社のある山がかって「ほしがおか」と呼ばれた謎とは?

4月24日(日)天気:晴参加者:10名


 東京都内におけるフットパスとして、個人的におススメなエリアの一つが「赤坂界隈」です。そこで、以前にも「NPOみどりのゆび」で訪れたコースを、さらに多摩・町田ともつながる古街道「奥州古道」を探るという視点でリニューアルしながら再び開催致しました。
 当日は春の陽差しも心地良く、参加者10名がTBSの「赤坂サカス」に隣接する「赤坂Bisタワー」前に集まりました。一ツ木通りから南側に広がる緩やかな傾斜地に、勝海舟夫妻の家の跡を訪ねましたが、前回来た時にはなかった「勝海舟と坂本竜馬像」が新しく出来ていたことに少し驚きながらも、地元顕彰会の活動に感心しました。

勝海舟と坂本龍馬像(写真: 田邊)


南部坂

 また、「赤坂氷川神社」では、播州赤穂浪士で知られる浅野家の下屋敷跡が江戸時代の初めまではここにあり、浅野内匠頭の妻・遙泉院が、討ち入り予定を胸に秘めた大石内蔵助を雪の中で見送った「南部坂の別れ」の物語の舞台であることから、皆さんと坂の上に実際に立って、しばらく往時の風景に想いを馳せました。


赤坂氷川神社の婚礼


赤坂氷川神社の山車

 昼食後は今日のコースの見所の一つ「赤坂日枝神社」のある山が、かつて「星岡(ほしがおか)」と呼ばれていたことの謎をテーマに、参拝を兼ねつつ裏側まで探索。この神社はかつて江戸城の中の最高所である紅葉山近くに太田道灌時代に祀られていたものを、徳川二代将軍秀忠が江戸城拡幅の際に城外に。さらに四代将軍家綱の時代に現在地に移したものですが、社殿の裏手には最近まで「皇室が大嘗祭の際に使った祭器を埋納する聖域」があったことからも、何か特別な場所と考えています。ここは古くからの「北天祭祀場(北極星とその周りを廻る北斗七星の運行を元に政⦅まつりごと⦆や祭礼の実施日を決め、また繁栄を祈る場所)」だったというロマンがあります。


千本鳥居

 さらに昭和時代を代表する陶芸家、料理・美食家として有名だった魯山人が、この神社の南東側に「星岡茶寮」という文化人サロン的な料亭を営んでいたこともあり、この地の不思議な呼称が気に入って店名としたのでは…ともお話しました。
 その後は、「赤坂御門」から「旧赤坂プリンスホテル」の建物と人工的なビオトープ公園、大久保利道が刺客に襲われた「清水谷(紀州家・尾張徳川家・井伊家屋敷跡に接する谷)」へ。


旧赤坂プリンスホテル(写真: 田邊)


ビオトープ公園「清水谷公園」(写真: 田邊)

 また今回の一番のテーマである「多摩や町田から続く奥州古街道が、実は紀尾井坂そのものを通っていたことがわかった!」――というロマンで推定路をたどりました。それは今の天皇陛下が学習院初等科時代の体験を書かれた本『テムズと共に』の一節(赤坂御所の敷地内で“奥州街道の碑”を発見された)があることも参考にしています。

 終点の「平河天満宮」や「江戸城半蔵門」へ、遠く平安~中世時代からの奥州古道が紅葉山へと延びていた?ことを想像しつつ、夕方4時過ぎに終了。やや長丁場ながら皆さん満足そうで、ほっと胸をなで降ろした半日の終わりでした。
( 文と写真の一部:宮田太郎)


遠い昔の歴史と現実を結ぶ歩きにワクワク



 1月に町田市小山田町に引越してきました。同僚から「町田市にフットパスがあるよ」と聞いて調べてみると、なんだか楽しそうです。さっそく宮田先生の“歴史ロマン探索”に参加させていただくことに。歩くことが好きで、いろいろなツアーに参加してきましたが、詳しい資料を作ってくださり、歴史的な背景を解説していただきながら歩くのは初めてです。
 赤坂プリッツで待ち合せして、「勝海舟邸跡」から「南部坂」と「氷川神社」、「日枝神社」と「星ヶ岡」、「紀尾井坂」を通って半蔵門駅まで歩いてきました。勝海舟と坂本龍馬の銅像を見ると、龍馬が刀の鞘から手を放しており、最初は海舟を伐つつもりだった龍馬が伐つ気がないことを表していると教えてもらったり、歴史が苦手だった私には、たまたま引越して来た町がとても歴史がある場所であることを知ったり、徳川家康が多摩丘陵を通って江戸に向かった話はとても興味深かったです。
 歴史だけでなく古道の地形がずっと丘陵を通っていることや、古道が半蔵門でぶつかっていることなどを知り、普段何気なく通っている路の、昔の姿を思い描きながら歩くことは、想像しがたい江戸時代の人々の生活を少し垣間見た気がして、とてもワクワクするものでした。
( 文:谷野知美)


街中地図を見ながら(写真: 田邊)


紀尾井坂通り(写真: 田邊)
2022.04.24 20:31 | 固定リンク | フットパス
他のまちのフットパスをみてみよう 渋沢栄一の愛した飛鳥山
2022.04.09
他のまちのフットパスをみてみよう渋沢栄一の愛した飛鳥山

[ 講師:鈴木由美子・八田三枝子]王子・飛鳥山の今と昔を歩く

4月9日(土) 天気:晴参加者:11名


 2020年飛鳥山で【飛鳥山300年展―吉宗が作った江戸のワンダーランド】が開催されました。
 1720年は吉宗が初めてここに桜を植えた年です。後、楓や松を植えて景観を整え11年後に庶民に開放しました。「王子稲荷神社」、「王子神社」から「飛鳥山」にかけて茶店や料理屋が並び、多くの人たちが行き交い賑わいました。
 明治には渋沢栄一が住み、海外からの要人を饗し、徳川慶喜も訪れて写真に収めています。

スタートは「王子駅前公園」。ここから「装束稲荷神社」に向かいます。この公園は渋沢が製紙工場を作るため、石神井川まで来ていた千川用水をここまで引き池にした所。二つの川が利用出来た事もあり、渋沢はここ王子に製紙会社を作りました。「洋紙発祥の碑」があります。


王子駅前公園にて今日のコース案内(写真: 田邊)

 大晦日、関東一円の狐たちが「王子稲荷神社」に参詣するため榎の下で装束を整えた、と伝えられている「装束稲荷神社」は縁深い神社です。今は人間が各々狐の面を付け、【狐の行列】として「王子稲荷神社」まで初詣に向かいます。参加人数2万人。「装束稲荷神社」の太田南畝の句も面白いけれど、土産物店「ヤマワ」の壁面いっぱい
の狐の面は必見です。


広重画浮世絵
「王子装束ゑの木大晦日の狐火」


壁面いっぱいの狐の面(写真:田邊)

 「醸造試験所」は清酒の品質を高めるため明治政府が作りました。当時は酒税が全体の42%を占めていました。幕末には、ここは大砲製造所として反射炉が3層あったそうです。水車の動力で砲身に穴を穿つため千川用水を引いたが、一門も作られぬまま明治になりました。


旧醸造試験所第一工場(写真: 田邊)

『王子岸町の今昔』石鍋秀子さん作の絵地図は昭和初期の様子が分かり易い。
 今では石神井川は流れを三つに分け、二つは「飛鳥山」の下を通ってから合流して隅田川に流れ込んでいます。石神井川が、かっては不忍池に流れていたとは。


石鍋さんの絵地図(昭和7年頃)『北区史を考へる会』発行

 「飛鳥山」から西ヶ原にかけて多くの遺跡と2つの貝塚があるうち、「中里貝塚」は常識を覆す大発見だったとの事。ここは今もワンダーランドなのかもしれません。
 「飛鳥山博物館」の中で解散しました。
( 文: 鈴木由美子)


音無親水公園にて(写真: 田邊)


飛鳥山博物館にて(写真:田邊)

 豊かな水源の地、王子と近代日本の産業に貢献した渋沢栄一



 スタートは「王子駅前広場」。「装束・王子稲荷神社」・「北とぴあ」・「王子神社」・「音無親水公園」・「名主の滝」・「醸造試験場跡地」・「飛鳥山公園」と無事行程を終了した。
 振り返るに王子・飛鳥山は海食崖で、京浜東北線の線路を挟んで東側の大部分が東京低地、西側の大部分が武蔵野台地の東端本郷台地と二分されている。駅周辺は緑豊かな自然環境や文化資源があり、JR・地下鉄・都電・バス・首都高速道路などが集まる交通の要衝となっている。
一方でJRや幹線道路・石神井川などが駅前周辺の回遊性を阻害する要因ともなっている。また住宅密集地域における防災上の課題もあり、統一性のない駅前景観が機能向上の街づくり実現に向け、大規模な計画が進められている。
 石神井川の水脈の集まる古の水の都であったこの地は、良質の水を求めた中世の豪族・豊島氏の軍事拠点として発達し、豊島氏が紀州熊野より「若一王子神社」を勧請したことで王子の名が定着した。
江戸時代に入ると八代将軍となった吉宗は江戸城入城の際、紀州に因んで付けられた地名を目にした。そして石神井川による渓谷と飛鳥山、その地形に目を付け、紀州を偲んで周辺を整備させ、「飛鳥山」は桜の名所となった。
 豊かな水源に目を向けた鹿島紡績創設者鹿島万平、製紙会社の工場を建設し近代日本の産業の基盤を築き上げた渋沢栄一。しかし、水源によりもたらされた工業の発展で渋沢の愛する老松は枯れ、公害が嘗ての桜の名所を脅かした。その歴史を見守ってきた「王子神社」の大銀杏。
今回は変遷途中の王子・飛鳥山をご覧いただきました。グランドデザインで王子・飛鳥山はどう変わるのでしょうか。新たな景観を得た王子・飛鳥山にいつかまた来訪して頂きたい。

( 文: 八田三枝子)
2022.04.09 21:51 | 固定リンク | フットパス