•  フットパス活動の記録

バッタとコオロギ取り
2019.11.16
 今年で4年目になり、多くの方が参加するようになりました。町田市小野路は、東京の都心から近いところにありますが、豊かな自然が残されています。参加される皆さんには、里山の自然でいろいろな遊びを体験していただき、人と自然の関わりについて考え、今後も大切にしていこうという気持ちを育てています。
 この活動は「子どもゆめ基金」の助成を受けて実施しています。

11 月16 日(土) 天気:晴 参加:7 家族16 人

 秋は草むらでバッタとコオロギ取り。広い田圃や空き地を走り回っていました。
 パチンコを作りました。二叉の枝を探して、ゴムを結びます。玉はどんぐりです。コナラやクヌギ、アラカシなどのどんぐりをいっぱい拾いました。的は大きな鍋と蓋です。当たればカーンといい音がします。
 お昼は、山から木の枝を集めてたき火をしました。焼き芋とマシュマロ焼きをしました。
(小林 道正)
秋のあきる野市
2019.11.16
秋のあきる野市古刹の広徳寺・大悲願寺と里山の小峰公園、横沢入を歩く
11 月16 日(土) 天気:晴 参加者:3 名
講師:田邊 博仁(みどりのゆび)
武蔵五日市駅からスタート、秋川の川岸(秋川橋~小和田橋)を歩く。鮎釣りやバーベキューで人気の場所だったが、台風19 号の被害により遊歩道が閉鎖、回復工事が進行中であった。五日市盆地西縁の秋川右岸山麓にある広徳寺(1373 年)を参拝する。安土桃山時代の様式である茅葺きの山門が素晴らしい。加えて、堂々たる風格の総門と2 本の大銀杏の黃葉が、この寺の人気風景で、多くの人が訪れていた。都立小峰公園を経由して、横沢丘陵の秋川左岸にある大悲願寺を参拝する。樹齢500 年を超える大杉に護られた桜門と天井絵、地獄と極楽が彫刻された観音堂、伊達政宗白萩文書と白萩が有名な寺院である。続いて雑木林に囲まれた谷地、棚田と湿地が広がる東京都第一号の「里山保全地域」横沢入を歩き、武蔵増戸駅から帰途についた。
(田邊 博仁)
詳細はNPO 法人「みどりのゆび」のfacebook ページ11 月25 日をご覧ください。
2019.11.16 14:46 | 固定リンク | フットパス
白洲正子が暮らした「武相荘」と鶴川発見ツアー
2019.11.10
白洲正子が暮らした「武相荘」と鶴川発見ツアー
11 月10 日(日) 天気:晴 参加者:8名
町田の中心街と里山をつなぐコースを開発しようという大きな目的のもと、この日は小田急線鶴川駅北口からのスタートです。駅からほど近い町田市能ヶ谷旧白洲邸「武相荘」から多摩丘陵の尾根を歩き、真光寺公園まで。途中の寄り道を楽しみながらのコースです。
バスロータリーから鶴川街道を渡ると、旧道を右に入る間もなく緑に覆われた広大な香山園(かごやまえん)の門前に出ました。奥深い園内に視線を注ぐも、生憎閉鎖中! 地域の名家神蔵家が明治39 年に建てた書院造りの「瑞香殿」と池泉回遊式庭園が残っていて、現在は町田市が活用方法を検討中とのこと。20年ほど前に見た豊かな水を湛えた池や樹木の庭園の記憶が蘇ります。
それではと香山園に沿う路地の坂を、目指すは今や町田・鶴川の文化的象徴と評判の旧白洲邸「武相荘」へ。道沿いの竹林が美しく、途中にはお稲荷さんを祀った小さな祠が風情ある佇まいです。さて尾根を越えて急坂を下ります。途中、ちょっとの寄り道で、山の版画家畦地梅太郎の住まいとギャラリー「あとりえ・う」や鍋島焼のギャラリー「まつら」が。畦地は山岳風景と山男をモチーフにしたユーモアと温かみのある作風で、プリントされたT シャツなどのグッズも人気です。周辺の落ち着いた住宅街は、生垣に咲いたサザンカの花や早くも色付いたキヅタ、クサギの鮮やかな赤い実が目を楽しませてくれます。
いよいよ「武相荘」入り口に到着です。豊かな雑木林を季節の山野草が彩る小高い庭園を、散策路が正面に回り込んで旧白洲邸に誘います。ちょうど開催中の骨董市を楽しみ、ランチまでをゆっくり過ごすことにしました。
美術評論家・随筆家として知られる白洲正子(1910~1998 )、実業家・官僚として歴史に名をとどめる白洲次郎(1902〜1985)夫妻が、町田市能ヶ谷のこの地に農家を買い取り移住したのは昭和十七年。明治初期の建築と推定される寄せ棟造りで東側妻面兜造りの重厚な茅葺き屋根の主屋と、カキ、シラカシなどを配した広い庭の佇まいは、ここ多摩地域の養蚕農家の面影をいまに伝える貴重な文化遺産です。建家内部は囲炉裏や太い梁、大黒柱などのある構造を原型に近い形で残しながら、白洲夫妻ならではの審美眼に適った品々を取り入れたライフスタイルが忍ばれる、レストランやカフェ、ショップも備えたミュージアムという形で公開されています。
室内には愛用の骨董や着物、アクセサリーなど、正子の生活を彩った品々、また小林秀雄や青山二郎、川上徹太郎など、そうそうたる文化人たちとの親交を物語る著書なども展示されています。
ちなみに、「武相荘」とは武蔵と相模の境にあるこの地に因んで“無愛想”をかけた次郎による洒脱味ある命名。“美の求道者”と称される正子が古い民家や暮らしの什器などに限りない価値を見出して、今もここ鶴川の地に発信してくれる場があることに、感謝せずにいられません。終戦直後は家から鶴川駅へ続く田圃道がよく見えたと著書「鶴川日記」にも書かれている風景は、今やすっかり新しい街並みに変わって時代の趨勢を思わせられます。
さて賑わう骨董市の人波をかき分けてランチを堪能した一行は、鶴川街道に出て鶴見川を渡り、鶴川平和台団地方面に。並木のハナミズキが赤く色付き始めた坂道を上がると、左手に築150 年といわれる茅葺き屋根の古民家が見えてきました。前庭には稲藁が干され、往事の農家の佇まいですが、現在はレンタルスペースとして活用されているということです。ここ鶴川では古民家がフットパスのポイントとして人気で、鶴川駅から柿生に向かう街道添いにも築150 年の茅葺き古民家「可喜庵」があります。鈴木工務店の当主が代々受け継いで来たもので、先々代当主は香山園の書院造り「瑞香殿」の棟梁。建築家でもある現当主が守る可喜庵は、古民家ならではの快適な暮らしの研究の場にもなっています。
平和台から先、鎌倉街道早ノ道は川崎市と町田市との境界尾根で、その昔急使が早馬を走らせたと考えられる道です。道なりに民家の並ぶ尾根道を行くと、左斜面に広袴神明社がケヤキの大木やヤマザクラに護られるように佇んでいました。創建の年代は明らかではないものの、江戸時代の嘉永7 年(1854)の「村差出明細帳」に「明神社」という記述があり、天照天神を祭神とするその歴史を伺うことができます。
いささか重い印象の神明社を過ぎると途端に眺望が開けて気分一新。左眼下前方には鶴川団地の向こうに大山、丹沢山地が広がり、雪化粧した富士山も頭を覗かせています。そのまま尾根越えの車道を横切り、続いて鶴川台尾根緑地の散策歩道に入ると、心地よい木漏れ日の雑木林です。ここを抜けると眺望はさらに開け、折からの晴天に目眩がするほどダイナミックな景観に圧倒されます。その広がりは多摩丘陵でも有数との評判に納得です。再度車道を横切り、やがて道は真光寺緑地の林の中へ。
右手には小さな休憩展望広場があり、コンピューター関連のマイコンシティや若葉台の高層マンションが望めます。道は真光寺公園の縁を回って広場へ。
昼食のあと能ヶ谷の旧白洲邸を出て3時間あまり。
正子は著書「かくれ里」でも、取材目的の村里を訪ねる際など、つい興味をひかれた場所に迷い込み、その結果、予期しない発見をする楽しさに触れています。
それこそフットパスの魅力です。ひょっとして彼女もこの道を歩いたかもしれないと思えてきました。
起伏を生かした広大な芝生には、伸びやかに枝を広げた樹木が点在して木陰を作り、のんびりと寛ぐ家族連れやはしゃぐ子どもたちの声が遠く近く聞こえて来ます。秋の日は短い。早くなった日暮れの気配に、足を動かした心地よい充足感を感じながら、鶴川行きの真光寺公園バス停に急ぎました。
真光寺周辺は鎌倉街道早ノ道、軍事戦略鎌倉道などが錯綜しているとされ、布田道は尾根伝いに小野路へと繋がっています。この多摩丘陵には多くの古街道が息づき、また眠っているといわれています。今後、さらに魅力的な歴史フットパスが期待できそうです。
(横山 禎子)



2019.11.10 14:20 | 固定リンク | フットパス
信夫山(しのぶやま)を中心に
2019.11.01
信夫山(しのぶやま)を中心に活気づく福島フットパス
11 月1 日(金) 天気:晴 参加者:3 名
福島市のフットパスに来ました。メンバーは、長井市の浅野さんとみどりのゆびから横山さん、佐藤さんと私の3 人。元市役所観光課職員だったNPO「ストリートふくしま」理事長の水口さん以下、観光第一線の皆様の歓迎を受けました。今、福島で非常に感性の高いフットパス作りが進行しています!
福島市内に信夫山という山があります。よくある観光地なのかなと思っていましたが、この山LOVE ひと筋の、しかも東京からわざわざ移住してきたようなファンの会ができるほど、深い魅力が尽きない山なのてす。信夫山は駅から車で15 分、歩くと小一時間。周囲はちょうど皇居一周と同じ長さの山で、福島盆地が陥没してできたときに真ん中に残った珍しい残丘です。
歴史も古く飛鳥時代に天皇継承争いに破れた皇子と母皇后が信夫山に逃げ延び、羽黒大権現と黒沼大明神として祀られたという言い伝えがあるほど。地形的にも3つの三角点があるように面白く、あちこちの展望台から見えるまちの眺望はジオラマのようです。また、山伏も訪れた信仰の山でもあります。
羽黒大権現直下で傾斜35 度の参道は急峻な登り道で、こんな高所に六供(ろっく)と呼ばれる悲劇の皇子のお供の人々が開いた集落が今でも存在しています。
振り返ると絶景の見える急坂を、軽三輪に乗ったやんごとなき子孫のおじいさんがスイスイ上り下りしながら農作業をしていました。各家の屋敷神が祀られる小宮もそれぞれに立派なもので、飛鳥の空気が漂っています。これが福島市街の真ん中にあるのです。
懇親会でも、「福島は大事なものを皆捨ててきた」といって、古いものを壊し開発を進める福島の姿勢を憂い、活性化策に熱弁を奮う皆さんを見ていると、福島にはこれだけセンスのある人材の層の厚いことが何にもまして宝だと思いました。
2日目は、福島市内コースです。福島市内のコース作りやマップはとても良くできています。「長崎さるく」から学ばれたということですが、フットパスの観点からもきちんと要点が押さえられた高度なものです。待ち合わせ場所は福島市出身の作曲家古関裕而の彫刻の前。ちょうど来年の朝ドラ「エール」の主人公だそうで、これで福島もまた観光が進むでしょう。
福島市は駅の東側に繁華街が広がり、昭和風のレトロな建物がある路地がいくつもあり、駅からまちのコアである福島稲荷神社までの往復小一時間で楽しいまち歩きができます。日本銀行の支店(!)は昔はレンガの建物だったようです。
その繁華街がきれて阿武隈川に接する辺りに県庁、昔の福島城の跡があります。城跡に立つと目の前に雄大な阿武隈川が流れ、城主は毎日素晴らしい眺望を堪能したことでしょう。また舟運の要衝でもありました。
福島は昔は「杉の目」「杉の妻」と言われていました。
「杉」は川が氾濫した土地のことで、「目」「妻」は境目という意味らしいです。東に阿武隈川、南に荒川に囲まれているので頷けます。

「杉の目」を「福島」に変えたのは木村吉清という織豊時代の領主でした。大阪の淀川の河口の三角州に福島というところがあり、やはり三角州にあった杉目城を福島城と改めたと言われています。
福島城の郭の周囲には、尾根道である奥州街道があり、福島城は阿武隈川、荒川、そして奥州街道の尾根道に守られた城だったようですが、さらに郭の周囲には福島稲荷神社を中心に立派な寺も散在しています。
福島稲荷神社を置いたのは安倍晴明といわれ、福島城や福島稲荷神社のちょうど北に信夫山があり、風水的なものも感じます。大きな鳥居は明治神宮の御下がりということで、古代から朝廷との繋がりも深いようです。
午後は、震災で心に傷を持った人々のために、園内でイベントを催したり、「森のガーデン」というフルーツパーラーを作ったり、故郷愛を強力な活動の源にしているリンゴ園に行きました。
何万個(?)あるかわからないリンゴの一つ一つを、日が当たって全体が赤くなるように面を少しづつ動かしたり、日陰を作る葉っぱを取ったりというような細かな作業を毎日繰り返して、日本の立派なリンゴが作られているのです。果樹園もこういう生の話が聞けるとイキイキ見えてきます。
福島も、この前行った青森も、感性が高くてキラキラして、こういうまちが日本のあちこちにある日本の未来は明るいと思いました。
(神谷 由紀子)
2019.11.01 14:14 | 固定リンク | フットパス