•  フットパス活動の記録

他のまちのフットパスをみてみよう 小湊鉄道と養老渓谷・チバニアン
2025.07.05
[ 講師:みどりのゆび 小林 道正]

トロッコ列車で緑のトンネルを走り抜けチバニアンでタイムトラベル

7月5日(土) 天気:晴 参加者:8名

 私たちが乗った「トロッコ観光列車」は養老川に沿って、水田の中を走り、自動車道路と並んで走り、雑草と樹木の中をゆっくりトコトコユラユラ、時々ガタンゴトンと車体を軋ませながら進みます。沿道の住民の方や自動車の中の人たちが手を振ってくれます。みんな笑顔になります。


トロッコ観光列車(小湊鉄道HPより転載)

 小湊鉄道は房総半島の里山風景の中を走る姿が人気です。大正から昭和初期にかけて建設され全線単線非電化という完成当時の姿を色濃く残しています。レトロな車両や駅舎が現役で活躍していて映画やドラマのロケ地としても選ばれ、多くの鉄道ファンや観光客を魅了しています。


小湊鉄道・途中駅でお買い物

 目指す「チバニアン」は養老渓谷にあります。
 「チバニアン」とは地質年代に命名された名前で、今から77万4千年前から12万9千年前の地質時代名です。2020年1月に日本の地名が初めて地質年代の名前として国際地質科学連合で認められたということで話題になり、有名になりました。


地層の露頭(チバニアンBCのHPより転載)

なぜ「チバニアン」が認定されたのでしょうか?その理由は、養老渓谷の崖には観察がしやすく
保存状態がとても良い「上総層群(かずさそうぐん)」が露出していたからです。その地層の中には
①地球磁場が逆転していた記録が明瞭に残ってい
る。
②白尾火山灰層という目印になる地層がある。
③有孔虫や花粉などの保存良好な化石が豊富に含まれている。
という好条件が揃っていました。
 今回は「チバニアン」の露頭を見学する予定でしたが、残念なことに周辺整備の工事のために立入禁止で近づくことができませんでした。1ヶ月前の突然の発表だったために本会の対応ができませんでした。ご迷惑をおかけしましたが、もう一度来年企画したいと考えています。
 「チバニアン」の時代に堆積した上総層群は、私たちが住む東京•神奈川の地下にも続いていて基盤岩となっていることを考えると、少し身近な存在に思えてきます。


永昌寺トンネル内の地層観察

 「チバニアン」のビジターセンターではボランティアの方が親切でした。皆さんが興味をもたれたことは「地磁気逆転現象」についてだったようです。「松山逆転極期」とは発見者の京都帝国大学松山基範教授の名前が使われています。


チバニアンビジターセンター

 養老渓谷周辺の崖は比較的柔らかい岩石で、ツルハシやスコップでも削ったり穴を開けたりすることができるので、地域では江戸時代の頃から素掘りでトンネルを掘って利用していました。入り口の形が将棋の駒のような五角形をしているものがありました。
 昼食はチバニアンビジターセンター近くの「このいかふぇ」で美味しいビーフシチューをいただきました。


「このいかふぇ」でランチ

(文と写真:小林 道正)

チバニアンの露頭を、来年こそこの目で

 蒸し暑い夏の朝、新宿駅から五井駅へまず向かいました。ここから、フットパスの本番が始まります。小湊鐵道の観光列車「房総里山トロッコ」に乗り込み、私たちは房総半島の中央を流れる養老川に沿って、チバニアンの最寄の月崎駅がある里山を目指しました。どこかクラシカルでありながらも景色が見やすく工夫された車両は、レトロなDB4型機関車にガタゴト引かれ、緑の田園風景の中をゆっくりと走ります。私たちの列車を見かけると地元の方が手を振ってくれてほっこりしました。
 やがて列車は月崎駅に到着。そこから少し歩き、素掘りの永昌寺トンネルを見学し、ポツンと1軒だけのカフェでお昼をとりました。ここではビーフシチューをいただきました。とろけるような牛肉と、野菜の甘みが溶け合った濃厚な味わいに、全員が思わず笑顔に。満腹になってチバニアンビジターセンターに向かいました。館内でセンターの方から解説をお聞きした後、現在は工事のため残念ながら立ち入り禁止になっているチバニアンの手前まで案内をしていただきました。ぜひ次回は、工事も終わったチバニアンの現場と隈研吾によるガイダンス施設をみんなで訪れたいねと意見が一致しました。


車内にて


古民家風の「このいかふぇ」

(文と写真:太田 義博)
2025.07.05 20:21 | 固定リンク | フットパス
他のまちのフットパスをみてみよう 奥浅草から吉原への山谷堀と日本堤を歩く
2025.06.22
[講師:みどりのゆび 浅黄 美彦・神谷 由紀子]

大河ドラマ「べらぼう」の舞台は今


6月22日(日)天気:晴 参加者:12名

 NHK大河ドラマ「べらぼう」の舞台である吉原とその道筋、山谷堀と日本堤を歩いてみようというものです。
「二天門」に10時集合という渋い選択をしてみました。戦災にあった「浅草寺」は、本堂・門・塔などほとんどがRC(鉄筋コンクリート)の建築ですが、二天門と「浅草神社」本殿は、江戸時代の建物です。江戸の建物を眺めながら、まずは浅草寺裏にある「浅草寺支院・集合住宅(1932年築)」前を通り、浅草神社の裏側にある「被官稲荷社」へ。幕末、新門辰五郎が勧請したという渋い稲荷社でした。


二天門


被官稲荷社

 言問通りを渡り芝居町猿若町を通り、「待乳山昇天」へ。旧芝居町はかつての芝居小屋があった碑のみで、その雰囲気を感じることはできませんが、江戸歌舞伎の始祖・猿若勘三郎の名からつけられた。江戸末期の芝居町「猿若町」を歩くことだけでも、楽しいような気がしてきます。

 隅田川方向に少し進むと10mほどの高台が待乳山昇天。隣接する公園内には、ここで生まれた作家・池波正太郎の碑がある。「大川の水と待乳山昇天宮は、私のふるさとのようなものだ」と記している。
 待乳山昇天を北へ抜けると、今回のフットパスのテーマのひとつ「山谷堀と日本堤を歩く」の入口です。山谷堀は昭和50年代に暗渠となり、その上部を台東区が公園として整備しています。
 幅9m、長さ750m、緑道とせず公園として整備しているのも面白い。
 「今戸橋」、「吉野橋」、「山谷堀橋跡」など通り、途中「今戸神社」にも立ち寄り小休止しながら、「山谷堀公園」にある歴史解説板を読みながら吉原へ向かいました。


山谷堀公園


今戸神社

 日本堤通りに出て「見返り柳」のところを左折、S字の五十間道を下ると「吉原大門跡」に辿り着きます。極楽とこの世の間が五十間という川柳のとおり、遊郭という特殊な世界との境界です。
 この通りの左側に蔦屋重三郎は書店を開き、吉原のガイドブック『𠮷原細見』を売って名をあげたという。大門脇にあった「松葉屋」はすでにマンションとなっており、吉原の痕跡、おはぐろどぶの石垣、遊郭「大文字屋」跡の「吉原公園」、「吉原神社」、わずかに残る吉原カフェ建築など、吉原の点在するスポットを巡ってきました。


吉原神社集合写真


吉原カフェ建築

 吉原の町中華や喫茶店に分かれて昼食をとり、「一葉記念館」へ。木造のアパートのような旧一葉記念館も趣がありましたが、2006年に建替えられた記念館は、東京都現代美術館の設計者、柳澤孝彦氏の手によるものです。一昨年の三ノ輪フットパスでも訪ねておりますので、近くのあんみつ屋さん組と一葉記念館組に分かれ、休憩も兼ねて各々赴くままにのんびりとした時を過ごしました。
 いよいよ最後の目的地、三ノ輪の「浄閑寺」へ。“投込寺”とも呼ばれ、花又花酔の川柳「生まれては苦界死しては浄閑寺」と詠まれた碑が切ない。新吉原供養塔の向かい側には、遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、永井荷風が詩碑を残している。文学に詳しい方に解説していただき、より深く味わうことができました。また、参加者の一人が詩碑の建立の日が6月22日と気づき、当日のこの場所を訪ねた奇遇で盛り上がったところで解散となりました。
(文と写真:浅黄 美彦)

蔦重の「耕書堂」を模した観光案内所も活気づいて


 私は、吉原詣は二回目だった。前回は地下鉄三ノ輪から「目黄不動尊」にお参りし、吉原の方へ向かった。今回は浅草寺の二天門に集合して歩く。二天門は浅草神社の近くにあり、雷門辺りより人が少ないので覚えておきたい所だ。
 厳かで風格のある「今戸神社」は招き猫発祥の地で、入口には大きな招き猫が二体飾られている。また縁結びなどのご利益があるとのことで、絵馬にも招き猫が二体描かれている。 木陰で自己紹介をしたり、熱中症にならないように対策をとる。
 「 山谷堀公園」は隅田川に近いからか風が通り心地よかった。公園内にミニサイズの猪牙舟(ちょきぶね)や今戸焼の招き猫などがオブジェのように並べられていた。地元の歴史や産業の一部が分かりやすくて「いいね!」の声が多かった。
 「地方橋」と書いて「じかたはし」 。ここを曲がって更に広い通りまで歩いて行くと、遠くに小さな緑が見えた。「見返りの柳」?
衣紋坂の先には、某局のテレビドラマとタイアップして蔦屋重三郎の「耕書堂」を模した観光案内所ができていた。若い人も増えていて、以前より活気を感じた。
「 浄閑寺」にお参りしてから地下鉄三ノ輪駅にて解散する。私は少し歩いて、念願の都電荒川線に乗り帰路につく。
 電車が動き出すときの合図の「チンチン」の音を懐かしく聞いていた。
(文:新納 清子)


木陰で一休み(写真:神谷)
2025.06.22 20:00 | 固定リンク | フットパス
フットパス専門家講座泉の森の植物を訪ねて
2025.06.08
[講師:日本植物友の会会長山田 隆彦]

気軽に散策して、お目当ての植物を探す



6月8日(日)天気:曇 参加者:13名

 梅雨前の「泉の森」を訪ねた。小田急線の大和駅から歩け、気軽に散策できるのでこの地にはよく訪ねた。6月はキツリフネが咲きだす頃で、緑の林内にちらほらと咲きはじめていた。この稿では4種をとりあげようと思う。
ナガエミクリガマ科[長柄実栗]
 水中で葉を流れに任せている植物、ナガエミクリといい、神奈川県では2か所でしか標本は採集されていない。花期以外の葉は水中にあり、沈水状態で過ごしている。本州~九州に分布しているが、水の流れていないところでは、ほとんど見られない。花期は6~9月、この地のものは、例年なら花穂を伸ばし咲きはじめているのであるが、今年は遅れている。ミクリ科という独立した科であったが、新しいAPG分類(DNAの分析にもとづく分類)ではガマ科となり、ミクリ科はなくなった。



ナガエミクリ

クマノミズキミズキ科[熊野水木]
 ちょうど花盛りであった。白くこんもりと花がかたまりでつき、ミズキとそっくりであるが、花期が違う。クマノミズキはミズキより約1カ月遅く6~7月に咲く。名前は紀州熊野に産するミズキという意味。ミズキとの決定的な違いは、クマノミズキの葉は対生であるが、ミズキは互生である。また冬芽の形が違う。ミズキは鱗のような小さなかたい片に包まれた長い卵形であるが、クマノミズキは筆先のような形をしていて裸芽(芽鱗で覆われていない)である。


クマノミズキ

キツリフネツリフネソウ科[黄吊舟]
 名前のとおり、花は黄色で姿はぶら下がった舟に似ている。学名(世界共通の名前)はインパチエンス・ノリタンゲレ(Impatiens noli-tangere)といい、属名のインパチエンスは「耐えられない」、種形容語のノリタンゲレは「触るな」という意味で、熟した果実を触れると突然はじけることによる。この辺りには、暗紅紫色のツリフネソウも分布している。花の色ですぐに分かる。それ以外にツリフネソウは葉の上に咲き、距(花の後ろにつく長い管)が渦巻状に巻いているが、キツリフネは葉の下に咲き、距は巻かないという違いがある。葉の形も違う。


キツリフネ
ノハカタカラクサツユクサ科[野博多唐草]
 南アメリカ原産の帰化植物で、昭和初期に鑑賞用として葉に白い斑の入ったものが導入された。それが逃げ出し斑のないものが猛烈に増え、環境省の「要注意外来植物」に指定されている。この長い名前は、園芸種の葉の縞模様が博多織に似ていることから野に生える博多唐草と名付けられた。最近は別名のトキワツユクサの名を使う人が多くなった。


ノハカタカラクサ

 種々の草花を楽しみながら、相鉄本線の相模大塚駅で解散した。
(文と写真:山田 隆彦)



メタセコイアに、恐竜のいる白亜紀を想う



 植物に殆ど知識のない者として初めて大和を訪ね、泉の森観察会に参加させていただきました。山田先生のご説明から私が想像した事を拾い出してみます。
 大和駅のプロムナードに真直ぐ伸びた並木があり、先生からメタセコイアと説明されました。メタセコイアは恐竜が栄えた白亜紀に出現した植物です。この並木が成長して30m程に高くなり恐竜が大和のメタセコイアの森を闊歩する風景を想像し、現代と白亜紀が錯綜したロマンを感じました。
 次に植物の繁殖の工夫に関して。例えばツタのように伸びていく植物の場合、葉が茎から左右交互に周期的に出て、つるも規則正しく左右交互に出ています。太陽の光を満遍なく捉え且つ周りの植物等にうまく巻き付く為だそうです。またシダ植物の場合、仲間を増やすため、葉の裏に丸い小さな粒の集まりが並んでいます。時期が来ると粒がはじけて胞子が風に飛ばされ、地面に落ち繁殖するのだそうです。
 上述の”花が咲かないシダ植物“は風が胞子を運んでくれるようです。一方、花が咲く植物には、風の力や、蜂、蝶、野鳥などが蜜を吸いに来て花粉を遠くまで運んでくれます。素人考えですが、後者の方が花粉の運搬量が多く広範囲で繁殖するので、花が咲かないシダ植物は羨ましがっているかもしれません。
 ご説明の中に植物や人類の起源に関係する話も出て来ました。その中で、現存する被子植物でもっとも古いアンボレラという植物は、1億3000万年前の前期白亜紀に出現したと推定されているそうです。ここで恐竜の再登場です。植物の名前は中々頭に入って来なかったですが、ロマンをいただき有難うございます。
(文と写真:小田 直樹)


現実のメタセコイアの並木に恐竜を加えると
2025.06.08 21:31 | 固定リンク | フットパス
他のまちのフットパスをみてみよう 鷺宮フットパス阿佐ヶ谷から鷺宮へ
2025.05.23
[ 講師: みどりのゆび 浅黄 美彦 山本 愛子冨沢 みちこ ]

戦前からのよき街づくりの姿を体感



5月23日(金)天気:晴 参加者:17名

 昨秋歩いた「阿佐ヶ谷~西永福町」の続編です。今回は阿佐ヶ谷駅から北へ、西武新宿線の鷺宮駅まで歩きました。新たな取り組みとして「中野たてもの応援団」で活動している鷺宮在住のお二人にサポートしていただきました。前回同様に古道、神社、川(暗渠)を辿りながら、古民家、戦前の郊外住宅地、公団住宅や鷺宮ゆかりの著名人の痕跡も訪ねてみました。
 阿佐ヶ谷駅に集合、駅に近い「阿佐ヶ谷神明宮」で全体のコース説明を行い桃園川暗渠へ。暗渠とは、川や水路など水の流れに蓋をしたものです。その佇まい(景観)、うつろい(暗渠となった経過)、つながり(経路)を楽しむという「暗渠」の基礎知識を語りながら、迷路のような細道を北へ進むと「お伊勢の森児童公園」が見えてきます。


桃園川暗渠

 お伊勢の森児童公園から杉森中学校にかけての一帯はかつて「お伊勢の森」と呼ばれ、阿佐ヶ谷神明宮の旧社地であった、かつての深い森のかすかな名残りの場所としてこの児童公園が整備されているようです。
「 鷺宮神明宮」、「相澤家の旧居」跡、旧道そして「桃園川暗渠」を歩くことで、市街化する前の近郊農村としての旧阿佐ヶ谷村の様子を想像してもらいました。


お伊勢の森児童公園

 住宅地の細道を東に少し歩くと「A さんの庭」(旧近藤さんの家)、昭和初期に建てられた数軒の住宅が、生け垣をつらねて今も残る一角の中ほどに、庭木に埋もれるように、ひっそりとした佇まいを見せていたという。宮崎駿監督が、トトロが住みそうな面影の家々を訪ねた6軒のうちの一つです。
 A さんの庭ができるまでもドラマのようで、不審火で焼けてしまった戦前の住宅はありません。しかし宮崎駿監督は、家の土台や井戸、庭などを残し、家を思い出させる赤瓦のトイレを盛り込んだ公園を提案し、これが承認されて2010年に「A さんの庭」と名付け開園したそうです。A さんとはここを訪れるすべての人のこと。みんなが自分の庭のようにここを大事にしてとの思いが込められている場所は心地よく、ここで昼食をいただきました。

Aさんの庭

 早稲田通りを横断して北へ少し歩くと、2軒目のトトロの住む家、中野区白鷺の「Tさんの家」跡があります。ケヤキ並木のある集落の道沿いにあったTさんの家も、残念ながら解体されてしまいましたが、2012年、この住宅のお別れの会に出席したという案内人のお二人のお話を聞きながら、その家の面影は感じることができました。

ケヤキ並木にある白鷺のT さんの家跡

 次に訪ねた白鷺の茅葺屋根の旧家「細田家」は、幕末に移築された建物とのこと。その由来からこの建物の保存維持活動について、地元の山本さん、冨沢さんから解説をいただきました。広大な細田家の敷地の一部は、中杉通りの拡幅予定地だそうです。道路工事がなかなか進まず、時が止まったようなお屋敷となっていました。


細田家にて集合写真

 細田家を後にして、日本住宅公団の実験的なテラスハウスで作家阿川弘之・佐和子一家も住んでいた「鷺宮住宅」、将棋の「内藤九段邸」、「坪井栄の自邸」跡、「遠藤新設計の住宅」など、地元民ならではの鷺宮の見所を案内していただきました。最後に美しくよく庭が管理された「福蔵院」を訪ね、ちょうどいらした、お二人の同級生でもある住職の奥様にお話を聞き、解散としました。


福蔵院にて

 解散後に、地元の案内人のご配慮で、喫茶店「エルビエント」を貸し切っていただきましたので、美味しい珈琲をいただきながら歓談しました。
(文と写真:浅黄 美彦)


喫茶店エルビエントで

祖父・三岸好太郎の絵に今も生き続ける景色



 阿佐ヶ谷から早稲田通りを少し進むと、中野区と杉並区の境界にたどり着きます。その境界付近には、築 150 年とされる中野区最後の茅葺き民家が残っています。屋根にはトタンがかぶせられていますが、長年の重みにより傾きが進んでいる状況です。
 この貴重な建物を守ろうと、「中野たてもの応援団」は毎月第 2 日曜日の午後に集まり、 約 20 名で広大な敷地(約 1000 坪)の清掃活動を続けています。また、伝統技法研究会という建築家の団体に依頼し、中野区文化財課が古い建物の悉皆調査を行いました。700 件以上の建物を調査し、記録を残したうえで報告書も作成しました。 その中には茅葺き民家や鷺ノ宮住宅も含まれていますが、残念ながら計画道路の建設 に伴い、鷺宮八幡神社社務所とともに取り壊される可能性が高い状況です。
 私の祖父は三岸好太郎、祖母は三岸節子で、ともに画家です。祖父がデザインした三岸アトリエ(昭和 9 年築)も調査の対象となりました。祖父は「鷺ノ宮風景」という 題名の油彩画を残しています。"祖父の油彩画『鷺ノ宮風景』には、かつての妙正寺川 の穏やかな姿が描かれており、失われつつある景色がキャンバスの中で生き続けています。
(文:山本 愛子)

ご参考:「鷺ノ宮風景」三岸好太郎作
・下記に文化財遺産データーベース(文化遺産オンライン)
からご覧いただけます。
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/233351
(みどりのゆび田邊博仁)
2025.05.23 20:51 | 固定リンク | フットパス
他のまちのフットパスをみてみよう町田・野津田の里山にある「浮輪寮」と野津田公園フットパス
2025.05.10
[講師:みどりのゆび 田邊博仁]

古民家を再生した浮輪寮を訪問野津田の里山を歩く


5月10日(土) 天気:小雨・曇 参加者:17名

 本日のFP(フットパス)の目玉は、「浮輪寮」です。
「野津田車庫」から、野津田の里山の小径を登ります。途中にある「浮輪寮」へのいくつかの案内板は手作りで、「ゆっくり~浮輪寮」と書かれ、浮輪寮のご主人の暖かい思いやりが伝わってきます。丘(104m)の上の「農村伝道神学校」に出て、そのキャンパスに入ると、大きなスズカケの巨木の右側に数寄屋造りの浮輪寮が見えてきました。


「ゆっくり~浮輪寮」の小径


浮輪寮と水鏡の池

「浮輪寮」の名は、1954(昭和31)年の青函連絡船洞爺丸事故で、日本人の若者に自分の救命胴衣を与えて亡くなった農村伝道神学校の創立者、カナダ人宣教師アルフレッドラッセル・ストーン牧師にちなんでいます。
 今日は「浮輪寮」内で、建築家丸谷博男先生から、ビデオを使って、浮輪寮再生にまつわるお話を伺いました。素敵なトークとまさかのピアノ演奏にビックリ、そしてご自慢の体に優しい手作りの「ホワイトカレー」をいただきました。廊下越しに解放された窓からの庭、雨に濡れた森、水が張った池も素敵でした。


数寄屋造りの天井と廊下と外の緑


建築家丸谷博男氏

 「浮輪寮」は2022年に再生され、里山の環境を学ぶ講座、古典落語、華道、茶道、上方舞、雅楽、音楽ライブ、朗読、ワークショップなど様々な目的に活用されています。

 「浮輪寮」を後に、午後からは野津田の里山を歩きます。FPを始めた頃(約15年前)、このようなマップを作って楽しんで歩いていました。久しぶりに、作ってみました。


野津田の里山歩きフットパスマップ

 このマップに従い、①野津田車庫から~③浮輪寮~⑤小野路一里塚~⑥野津田公園~⑨国内最大級12mの鎌倉古道発掘現場~⑩森のレストラン「俊宣茶房」をぐるり~と回るFPのご案内をしました。
野津田の里山の変遷(明治から昭和、平成、令和)を調べてみると、農村伝道神学校が野津田の広大な山林を購入後(1978(昭和33)年)から、各種施設ができています。
 神学校の丘から歩き始めると、「都立町田の丘学園」、「都立野津田高校」と続き、さらに歩くと「きこえの学校ライシャワー学園」(「聾話学校」から2025/4 学校名変更)、「まちだ丘の上病院」(名誉院長が鎌田實氏。鎌田氏の「地域を支える医療」が病院の理念)と各種の施設・学校・病院が集まっています。


「ライシャワー学園」


「まちだ丘の上病院」

 小野路へ向かう道を進むと、鎌倉時代からの古道が。江戸時代、家康の遺骨が久能山から日光東照宮に移された時(1617年)の御尊櫃御成道には、この時「小野路一里塚」が造られ、両脇にエノキの木が植えられました。その後、大山道として賑わいました。


小野路一里塚の案内板

 野津田公園に入ります。敷地面積は約121,000坪(東京ドームの約34.8個分相当)と広大な公園です。1990年に陸上競技場として開園。2020年には、町田GIONスタジアムが町田ゼルビアのホームグラウンドとして、2022年には、ばら園がここに移設されました。


野津田GIONスタジアム

「湿性植物園」へ入ります。公園調整池内に、1919年開園。現在はスケートパーク計画が進行中。
また、野球場の近くには「国内最大級12m幅の鎌倉古道」の発掘現場がありますが、発掘後の道路遺構は埋め戻され、公園の下に保存されています。
 公園の続きの森に囲まれ閑静なレストラン「俊宣茶房」(しゅんせんさぼう)をご案内しました。農村伝道神学校の創始者であるストーン牧師の晩年の住居を改修したお店のようです。




閑静な森の中のレストラン「俊宣茶房」(2014,12)

 森の中の小径を歩いて、野津田公園の「上の原ススキ草地」へ出ました。ここから、「華厳坂の鎌倉古道」を経て「野津田車庫」へ戻り、解散しました。

*下記のGoogleフォトのアルバムに全体の写真を掲載しています。下記のURLにてご覧いただけます。
【みどりのゆびFP「町田・野津田の里山にある「浮輪寮」と野津田公園フットパス(2025/5/10)】
https://photos.app.goo.gl/LNMqsJLUmhJkdSwq5
(文と写真:田邊 博仁)

浮輪寮を訪ねての感想



◆丸谷先生のお話から二つ、感想。
①朽ち果てているとも見られる木造建築を、伝統技法も生かしながらここまで再生されたことに感銘を受けました。特に、自然から学んだ室内環境の創出は素晴らしい。浮輪寮は周辺の木々のたたずまい(雨模様が一段と美しく)ともあいまって、独特のちからを見る者に感じさせますね。
②浮輪寮や農村伝導神学校の歴史を伺うと、戦争が終わった後しばらくの時代の「熱」を思い出しました。ぼく自身の小学校(井の頭の明星学園)の時代です。子どもごころにも、自由・溌剌の時代でした。今思えば、民主主義への期待に溢れていた時代と言うのが可能かも。
そして今回のフットパスを企画された田邊さんの精力的で周到な準備作業には感謝あるのみ。ありがとうございました。たくさんの素晴らしい写真にもお礼。(高見澤邦郎)

◆NPOみどりのゆびのまち歩き『町田・野津田の里山にある「浮輪寮」と野津田公園フットパス』で、浮輪寮を訪ねました。
 農村伝道神学校の学生寮として使われていた建物を、丸谷博男氏の改修設計により、見事に蘇った交流施設。丸谷さんから浮輪寮の謂れから出来上がるまでのお話を聞かせていただきました。本物のあるいは本気のエネルギーを費やして作られた建物の、凄みのようなものを感じました。
(浅黄 美彦)

◆昨日はありがとうございました。
 雨が池に水紋となり数寄屋造りの建物の中ゆるりとした灯り、丸谷先生の講演とピアノ演奏、まるで異次元の世界でした。雨の中もなかなか良いですね。素晴らしい一日でした。(櫻田美知子)
 数寄屋造りの古民家を再生した「浮輪寮」をバックに。ご自慢の手作りの「水鏡」に雨水がたまり、映し出される


丸谷先生とみなさま
2025.05.10 20:01 | 固定リンク | フットパス