•  フットパス活動の記録

フットパス専門家講座 八王子の湯殿川流域フットパス
2023.05.30

[ 講師:古街道研究家宮田 太郎 ]

中世武士団・横山党と鎌倉一族の伝説地・古道を探索する


5月30日(火) 天気:晴参加者:12名



 今回は八王子市域でも高尾に近い「狭間(はざま)町」や「館(たて)町」の境を西から東に流れて南浅川に注ぐ「湯殿川(ゆどのがわ)」流域の歴史ロマンをテーマにしました。
 我がNPOみどりのゆびとはフットパス仲間として馴染みがある山形県の長井市ですが、近くに月山・羽黒山・湯殿山の出羽三山信仰の聖地があることは皆さんも知っている、あるいは聞いたことがあるのではないかと思います。その長井市も、八王子の横山党という鎌倉時代初期の武士団の跡地を継いだ長井氏が関わっていることは、あまり知られていないのかもしれません。
 今回はこの湯殿川に沿う丘陵を東の片倉城址(ここも長井氏の居城)方向に進み、途中の和田というバス停(片倉駅行き)まで、山林や畑が残る丘陵伝いに丘を含む約7kmをコースとして歩きました。


八王子、湯殿川の上流「上館親水公園」にて

 当日はJR「高尾」駅前に10時に集合し、駅北側の廿里砦跡(とどりとりであと:現在の森林総合研究所一帯)を眼前に見ながら、駅南側の古刹「大光寺(高尾山薬王院の本坊建物を移した本堂がある)」から初沢城址の下の高乗寺入口に進みました。この「高乗」という寺の名前も、横山党の滅亡後に大江広元という鎌倉幕府の重臣の一族である長井氏が遺領に入り、室町時代初期の子孫が片倉城主となったそうで、その人・長井(永井)高乗が創建したことからこの寺名がついたようです。
 その先には、前・天皇陛下ご夫妻も来られた
「みころも霊堂」と、隣接する「高尾天神社」に日本一の大きさの菅原道真像があります。この道真像は、急な階段を上らなくては近づけないので、ほとんどの方が階段下から仰ぎ見ましたが、作者は意外にも、江戸日本橋の銅製の麒麟像や獅子像、多摩市の聖蹟記念館の明治天皇騎馬像を製作した渡辺長男(おさお)氏で、大正天皇の御陵が決定した際に建立が計画されたものの関東大震災で一旦頓挫し、放置された時期を経て昭和11年頃に私費や寄付金を費やして完成したものだそうです。
 その先は、狭間の台地上にある大型スーパーでの昼食に向かいましたが、途中で車の往来の多い町田街道を越えました。この街道は、ずっと先の町田の商店街に続きますが、その原型である旧町田街道は、実は鎌倉時代の「鎌倉街道山ノ道」であり、秩父地方と原町田を結ぶ中世の大街道でした。その旧道は今は静かな住宅街の道になっています。尾根上にあるその旧道に出た時、ご参加の皆さんに向かって、「みなさん、ここは高尾駅にも近い場所ですが、この道が町田の駅前の小田急デパート脇の第一踏切に続いていますので、どうでしょう、今日はこの道の探索に変更して町田駅前まで行きましょうか~!」と話すと、一斉に「え~!」とか「遠すぎ~」とか笑いながらもはるか先の町田を見ている目に変わっていたのが印象的でした。
 川沿いには、横山党が平安時代末期に源氏の東北遠征に加わった際に奥州から持ち帰ったと伝わる、神秘的で美しい大日如来像が古いお寺の堂内にあります。また、鎌倉一族の権五郎景正を祀る御霊神社があり、戦国時代の小田原北条氏照の家臣で八王子城で討ち死にした近藤出羽守の館城(浄泉寺城)もあります。


親水公園から湯殿川の御霊神社に向かいます



鎌倉権五郎を祀る御霊神社,アオバズクが生息していてビックリ

 そもそも湯殿川の名前をここに移した?その本当の歴史はどのようなものだったのか…という謎解きのような思いが私の中にずっとあり、皆さんと歩きながら、そんな話もしながら、楽しく景色の良い丘の上の森や畑の道を探索しました。

 その湯殿川由来の謎を解くヒントは、およそ四つーー①源氏に従って出羽国まで遠征した鎌倉権五郎が出羽三山に立ち寄り戦勝を祈願。その親戚にあたる有名な梶原景時(母は横山党で元八王子に故郷がある)が、後に当地の川に名前を移した。②横山党が奥州での戦乱に出陣した際に、出羽三山の神域から大日如来を持ち帰った伝説があるが、それこそが真実である。③鎌倉~室町時代に活躍した大江氏族の長井氏が、出羽国の置賜郡に領地を持ったので、当地方の一族にも伝わった。④戦国時代の近藤出羽守が出羽国との縁を持ったことで、この名前が当地方の川にも付いたーーなどが考えられるのでは…とお話ししました。
 もちろんこれらの内のいずれが正しいのかは不明ですが、古い中世武士の時代の話なので、参加の皆さんにはちょっと難しい話になったかもと思いつつでもありました。
 また一帯が古代の馬牧があった?=平安時代の延喜9年(909年)の朝廷の直轄牧の記録に見える「立野牧」と「館(たて)町」の地名の関係性のロマンもあり、今にも馬が飛び出してきそうな丘の上の小径を歩けたことは、貴重な体験だったかとも思います。


古代の馬牧(立野牧?)があったかもしれない丘はとてものどかな場所

 また高台の南側で建設中の圏央道バイパスを眺めた際には、遠く御殿峠や野猿峠まで見える雄大な景色に、皆さん一様に目を細めつつ展望を楽しんでおられたようでした。


森を抜けた先の高台から見えたのは
「圏央道バイパスの工事現場」でした



何とも贅沢なフットパスでした




 今回歩いたのは、高尾山の麓に源を発し、八王子市の西部を東に流れて多摩川につながる湯殿川(ゆどのがわ)という小河川の流域です。高い段丘崖に画された谷間のようなところですが、頂いたマップによると古くから多くの街道が交錯する交通の要地であったようです。現在もJRや京王線に近くて都市化が著しいですが、周囲の山々や丘陵地はほとんどが鎌倉武士団や戦国北条氏などにより城塞化された歴史があります。
 前日は空模様を心配しましたが、当日は雨上がりの爽やかな空気の下での景観の中を歩くことができました。宮田先生の該博な知識に基づく解説を聞いていると、ちょっとした地形の変化や細い道も歴史的な意味を持ち、想像が一気に鎌倉時代や戦国時代の過去に飛びます。何とも贅沢なフットパスでした。
 今回のテーマである横山党は平安末期から鎌倉時代前期にかけて八王子市・町田市を中心に大きな勢力を誇った武士団で、この付近はその本拠があった場所です。大河ドラマの「鎌倉殿の13人」には含まれませんが、和田義盛の乱に加担して北条義時に滅ぼされたため歴史から姿を消しました。では横山党がこの地に残したものはあるのでしょうか?そもそも「湯殿川」という奇妙な名称は何に由来するのでしょう?また、流域にある「御霊(ごれい)神社」の祭神・鎌倉権五郎景正は東北が舞台であった前九年の役(平安末期)のころの武士ですが、なぜここに伝承が残っているのでしょうか?
 こういった様々な謎に対して宮田先生は大胆な説明を試みます。鍵となるのは、出羽三山湯殿山(ゆどのさん)の大日如来信仰との関係です。前九年の役に従軍した横山党や鎌倉氏一族が信仰を持ち帰り、この地に根付かせたのではないか…。
 最後に訪れた「龍見寺大日堂」の大日如来像(東京都重要文化財)は、直接拝観することはできませんでしたが、端正なお顔は写真からでも何かを語りかけてくるようでした。帰りのバス停の近くにも大日如来と思われる智拳印(ちけんいん)を結んだ古い石仏があり、印象的でした。
(文と写真:森 正隆)


湯殿川親水公園  龍見寺大日堂

2023.05.30 14:59 | 固定リンク | 未分類
フットパス専門家講座
2023.05.20
佃島、月島そして晴海へ/江戸のまち、
明治・大正・昭和初期のまちの変遷をめぐる


[ 講師:浅黄 美彦 ]

江戸のまち佃島、明治・大正の埋立て
地のまち月島、そして昭和の埋立て地
晴海。それぞれのまちの変遷をたどり、
路地・親水堤防・運河沿いを歩きます。


5月20日(土)天気:晴参加者:15名

 
 地下鉄「月島」駅7番出口を出て、西仲通りの東端にある「月島もんじゃ会館」前の広場に集合。まずは、かつての佃川のあった高架下を渡り佃島へ。
 佃島は隅田川河口にあった鉄砲洲の干潟に、百間四方の土地を拝領して造った江戸の漁師町です。
その歴史的なエリアに入る前に、あえて旧市街の外周にある「ライオンズマンション月島タワー」から見ることにしました。この開発では、周辺の路地に合わせて路地状空地を巧みに設けているのが特徴です。新たに造られた路地を抜け、「佃天台地蔵尊」の路地に入ると、その狭さに驚きます。

 
開発によって生まれた路地  佃天台地蔵尊の路地

 ここが典型的な佃島の路地でもあります。
 佃天台地蔵尊の狭い路地を抜けると「波除稲荷神社」、その先には船溜まりがあります。佃天台地蔵尊から旧佃の渡しあたりまでが江戸のまち佃島です。「佃公園」の西端から「佃小橋」、「大川端リバーシティ」を望むビューポイントで早速記念撮影。


佃公園の西端から記念撮

 古い佃島のゲートのような佃小橋へ。赤い欄干を入れて、船溜まり、「釣舟屋沖本」、「住吉神社」とタワーマンションの眺めも佃島を代表する都市風景となっています。
 佃小橋を渡り、佃の渡し方向に少し歩き横道に入ると、佃島の漁師住宅「飯田家住宅」と「佃政」がある。飯田家住宅は大正9年築(関東大震災前)で、漁師の専用住宅町家の構えをよく残す住宅で、400年前の地割と風景を伝える貴重な場所でもあります。
 飯田家住宅横の狭い路地を抜け隅田川の堤防沿いに出ると、佃煮の香りが漂う。「天安」に立ち寄る。
 

飯田家住宅  佃煮屋 天安

 佃島の締めくくりは「住吉神社」。社殿は1870年に再建されたもの。奥の明治末に建築された煉瓦倉庫も見どころのひとつです。今回は二の鳥居の陶製の額をじっくりと眺めました。額の文字は有栖川宮のもの。麻布のフットパスで訪ねた「有栖川宮記念公園」と繋がります。


住吉神社二の鳥居

 「住吉小橋」を渡り旧石川島へ。江戸の人足寄せ場から明治の監獄を経て石川島播磨造船所となる。工場の閉鎖後1979年に三井不動産と旧日本住宅公団が取得し、都心への人口回帰、ウォーターフロント開発、タワーマンションの先駆となる大川端リバーシティ21開発が1986年に着工する。
 1990年代の初めには古き佃島から石川島のポストモダンの超高層が出現し、新たな都市風景が生まれました。
 隅田川テラスを歩き「相生橋」を横に見て清澄通り沿いの肉の「高砂」へ。まち歩きの楽しみ、コロッケの食べ歩きで小腹を満たす。清澄通りを渡ると新佃島。1896年に埋立てられた新佃島は、当初は別荘地で文学者らが集まった割烹旅館「海水館」があった場所として知られています。平らな佃島、月島のなかで唯一小高くなっているのが新佃島の特徴です。


海水館跡

 そろそろ昼時となり、月島の路地をいくつか見ながらもんじゃ焼きの店へ。月島はタワーマンションともんじゃの店ばかりと憂いつつも、たっぷりと歩いたあとのビールともんじゃ焼きはやはり旨い。


もんじゃ焼き店の前で記念撮影

 昼食後は、月島の西仲通りを勝どき方面に歩き、看板建築や長屋と路地を飲み込んだタワーマンションの足元を進み「西仲橋」にたどり着く。土木デザイン賞を受賞したこの橋から、サクラの咲く頃は、月島川の春の花筏が美しいらしい。
 最後は朝潮運河に架かる「黎明橋」を渡り「晴海トリトンスクエア」へ。晴海高層アパートのあった旧日本住宅公団の団地跡地開発地です。運河沿いのトリトンスクエアのガーデンで解散しました。
(文:浅黄 美彦写真:浅黄・田邊)

運河や橋、町の歴史を歩いてもんじゃまで



「みどのゆび」への入会から、待ちに待って3年目にようやく参加することが叶いました。
 参加申し込みの際には事務局の神谷様からも、お久しぶりです!とお声掛けいただいてとても嬉しく思いました。それなのに、当日まさかの集合時間を間違え30分遅刻。ガイドの浅黄様が事前配信くださっていた歩くコースのご案内メールを頼りに、小雨上がりの中、追いかけました。残念ながら、「飯田家旧住宅」はスキップしましたが、佃煮屋さんで無事奇跡?の合流。墨田川沿いの緑地公園を歩いたり、佃島の氏神様、大阪から徳川家康公の御恩により移住された佃島の縁起など、何かの読み物で、私がちょっと見ていたものを深く知ることができました。
 また私は3歳頃からでしょうか、初めて自宅を持った父の庭で花木を育てるための手元用スコップを手に持った記憶があり、それ以来、植物が大好きです。今日はタイサンボクを始めろいろなお花を見、また名前や出自まで教えていただけて、とても有意義な一日となりました。
 途中、伊東豊雄氏の「風の卵」を通り見ながら、コロッケを頬張ったり、趣味の合うお仲間とお話ししながらのそぞろ歩きの楽しいこと。みなさんお優しくて。いつか会の拠点である小野路の活動にも参加したいです。まずは竹林の管理、来春こそはタケノコ!!!の御相伴にあずかりたいものです(笑)。



 話がそれました。佃島の「もんじゃストリート」はコロナ禍明けで満員御礼といった感じ。運良く皆さんで入れることができ、ツナとコーンが口の中でプチプチ弾けるもんじゃを楽しみ、町おこしで始まったもんじゃストリートが、もんじゃといえば佃島を短い年月で不動のものとしたことなどに感嘆いたしました。お店を出たら目前の大きなタワーマンションにびっくり。そんなこの界隈のパワーが人を魅了する魅力なのかしら。
 その後晴海に向かう道中、運河と川、町のつながりを知り、中銀マンションの中庭の小さな滝(人工)で涼み、「晴海トリトンスクエア」のガーデンを散策して帰路につきました。多くの花と歴史を垣間見られて、お江戸散歩楽しかったです。
 わたしは新潟県の真ん中あたりが出身で、自然を生かした公園以外はない? 特に歴史的な事というと「耳取遺跡」という縄文のほんとうに小さな歴史しかないのかな、そんな街で育ちました。
 フットパスを作るにはいろいろ工夫が必要そうですが、いつか自分で一つでも良いからコースを作りたいと思っています。この会を通じて学ばせていただきたいと思っています。今後ともどうか、どうぞよろしくお願い申し上げます。
(文:鈴木 いと子写真:田邊)
2023.05.20 14:29 | 固定リンク | フットパス