多摩丘陵フットパス専門家講座 岡上のバラガーデンから玉川学園、 町田へ
2021.05.30
多摩丘陵フットパス専門家講座 岡上のバラガーデンから玉川学園、 町田へ
[講師:高見澤 邦郎 ]
急階段や尾根道がつなぐ豊かな日常
5月30日(日) 天気:晴 (一時雨) 参加者:11名 フットパスガイドマップの3と4をつなげて、
尾根と谷戸を、緑と住宅をという企画です(電車なら10分ちょっとですが)。朝10時、小田急線鶴川駅北口改札に集合し、町田寄りの踏切を渡って直進、鶴見川を渡って最初に立ち寄ったのが「さんかくガーデン」。道路と水路に挟まれた小さな土地を四季折々の草花でよみがえらせた住民管理の広場です。
「さんかくガーデン」は花一杯
先を急ぐので尾根に上がらずそのまま和光大学 方向へ。左に岡上の急坂の住宅地、右にわずかに 残った田んぼが見える道を10分ほど歩くと、建築 工房があって「季の庭」の表示が。この庭は上の 斜面にあった2軒の住宅が取り壊された跡地を工 房の夫妻が購入して開園したとのこと。この季節 はバラが美しいガーデンですが、残念ながらコロ ナ禍で閉鎖中。手前の急坂を登って上から眺めて みました。庭の向こうに大学が見えます。
手前が「季の庭」
さらに急な階段を上がって尾根道に到達。左側 の谷戸は川崎市の緑地保全地区に指定された樹林 帯で、右側には結構昔に建ったとおぼしい住宅が 続きます。やがて道は細くなり、都県境の標識が 地表に打たれているあたりからは左右とも玉川大 学の構内で、農学部の牛舎もありました。
牛舎が残っていました(浅黄)
さて道はそのまま玉川大学の構内に入ります。 手入れのいいキャンパスに並ぶ校舎を見ながら進 むと、再び左側に住宅が並ぶように。このあたり、 鎌倉古道沿いで住所は横浜市奈良町ながら、もう 玉川学園前駅にほど近い住宅地。左に奈良北団地 に下りる信号を越えたあたりから丘と谷戸の風景 が広がり、道沿いにニラハウス(作家・赤瀬川源 平さんが住んだ家)も。そのまま下って小田急線 踏切、そして駅。12時前に到着し、南口の和食屋 さんとイタリアンの店に分かれて昼食をとりまし た。
以前は屋根にニラが植えてありました
かしの木山公園入口
午後の部は、まず1週間前に建替えオープンの学 園駅前コミュニティセンターを見学。
新装なった「玉川学園コミュニティセンター」(浅黄)
右に下って恩田川を渡ります。長い道のりで皆 さんお疲れ、「こがさかベイク」のカフェでお茶 タイムを取ることに。
「こがさかベイク」で一休み(浅黄)
東側に道をとって急坂を登り、再び鎌倉古道を 進みます。住宅地を抜けると右側に三井住友海上 のグラウンド(手前に町田市街地、遠くに丹沢・ 大山が望める)、左側は深い緑の昭和薬科大学。 さらに進んで元からの樹林を保全している「かし の木山自然公園(通称どんぐり山公園)」を歩き、 南の出入口から住宅地の中を行くと「鞍掛の松」 の碑(鎌倉攻めのとき新田義貞がここで休んだ) のある小さな公園に出ました。
休憩後、高ヶ坂遺跡(縄文中期の敷石住居跡)、 熊野神社を経て最終目的地の「芹が谷公園」に到 着。国内では唯一とされる版画専門の「国際版画 美術館」があります。公園は水と緑に恵まれた一 帯で、小さな子ども連れの家族がたくさん訪れて いました。
芹が谷公園の入口に国際版画美術館が建つ
動く彫刻、水がザーッと落ちてくる
雲行きが怪しいなと思ったら夕立がきて、公園 の東屋でしばし雨宿り。小やみになったところで 町田駅へ向かい、4時過ぎに解散しました。
川崎市から出発し横浜市をかすめ町田市へと結 構歩いたわけですが、谷戸の風景、丘陵の住宅地、 緑につつまれた学園や公園などを楽しむことがで きました。なおこのコース、トイレが駅前と公園 にしかないことにご注意ください。
( 文と写真:高見澤 邦郎 )
点 と 線
今回のルートはいずれもよく見聞きしている場 所でしたが「点」を知っていただけで、フットパ スでそれらを結ぶ「線」を歩くことができ、面白 い経験でした。以前、和光大学から玉川学園に抜 けるルートを適当に歩きはじめ、山越え谷越えで エライ目にあったことがあります。今回、尾根沿 いルートを知り、目からウロコ。また、学園南側 尾根の、今回一緒に歩いたTさん宅の前の道は、 なんと鎌倉古道だという。「鎌倉古道沿いにお住 まい?」。歴史に隣接している暮らしのようでち ょっと羨ましい。これをきっかけに鎌倉古道その ものにも俄然興味が湧きました。
途中で立ち寄った玉川学園駅前の新装コミュニ ティセンター入口にはユニークなベンチが置かれ ています。駅前の樹齢92年の大ケヤキ 夏は大 空に緑の葉がそよぎ、冬は天に大枝を差しのべる 姿が「いってらっしゃい」「おかえり」と言って いるようでした。それが枯死し2017年に切り倒さ れたのを、町の人たちが希望して蘇らせたのです。 それが町内在住の木彫家・前田忠一(ただかず)さ んにより姿を変えてお目見えしています。背板の 両面には町田市の鳥・カワセミ、ウサギ、イヌ、 バク、ミミズクたちが浅彫りされ「ようこそ」
「またね」と。
大ケヤキがベンチになった(浅黄)
( 文:塩澤 珠江 )
[講師:高見澤 邦郎 ]
急階段や尾根道がつなぐ豊かな日常
5月30日(日) 天気:晴 (一時雨) 参加者:11名 フットパスガイドマップの3と4をつなげて、
尾根と谷戸を、緑と住宅をという企画です(電車なら10分ちょっとですが)。朝10時、小田急線鶴川駅北口改札に集合し、町田寄りの踏切を渡って直進、鶴見川を渡って最初に立ち寄ったのが「さんかくガーデン」。道路と水路に挟まれた小さな土地を四季折々の草花でよみがえらせた住民管理の広場です。
「さんかくガーデン」は花一杯
先を急ぐので尾根に上がらずそのまま和光大学 方向へ。左に岡上の急坂の住宅地、右にわずかに 残った田んぼが見える道を10分ほど歩くと、建築 工房があって「季の庭」の表示が。この庭は上の 斜面にあった2軒の住宅が取り壊された跡地を工 房の夫妻が購入して開園したとのこと。この季節 はバラが美しいガーデンですが、残念ながらコロ ナ禍で閉鎖中。手前の急坂を登って上から眺めて みました。庭の向こうに大学が見えます。
手前が「季の庭」
さらに急な階段を上がって尾根道に到達。左側 の谷戸は川崎市の緑地保全地区に指定された樹林 帯で、右側には結構昔に建ったとおぼしい住宅が 続きます。やがて道は細くなり、都県境の標識が 地表に打たれているあたりからは左右とも玉川大 学の構内で、農学部の牛舎もありました。
牛舎が残っていました(浅黄)
さて道はそのまま玉川大学の構内に入ります。 手入れのいいキャンパスに並ぶ校舎を見ながら進 むと、再び左側に住宅が並ぶように。このあたり、 鎌倉古道沿いで住所は横浜市奈良町ながら、もう 玉川学園前駅にほど近い住宅地。左に奈良北団地 に下りる信号を越えたあたりから丘と谷戸の風景 が広がり、道沿いにニラハウス(作家・赤瀬川源 平さんが住んだ家)も。そのまま下って小田急線 踏切、そして駅。12時前に到着し、南口の和食屋 さんとイタリアンの店に分かれて昼食をとりまし た。
以前は屋根にニラが植えてありました
かしの木山公園入口
午後の部は、まず1週間前に建替えオープンの学 園駅前コミュニティセンターを見学。
新装なった「玉川学園コミュニティセンター」(浅黄)
右に下って恩田川を渡ります。長い道のりで皆 さんお疲れ、「こがさかベイク」のカフェでお茶 タイムを取ることに。
「こがさかベイク」で一休み(浅黄)
東側に道をとって急坂を登り、再び鎌倉古道を 進みます。住宅地を抜けると右側に三井住友海上 のグラウンド(手前に町田市街地、遠くに丹沢・ 大山が望める)、左側は深い緑の昭和薬科大学。 さらに進んで元からの樹林を保全している「かし の木山自然公園(通称どんぐり山公園)」を歩き、 南の出入口から住宅地の中を行くと「鞍掛の松」 の碑(鎌倉攻めのとき新田義貞がここで休んだ) のある小さな公園に出ました。
休憩後、高ヶ坂遺跡(縄文中期の敷石住居跡)、 熊野神社を経て最終目的地の「芹が谷公園」に到 着。国内では唯一とされる版画専門の「国際版画 美術館」があります。公園は水と緑に恵まれた一 帯で、小さな子ども連れの家族がたくさん訪れて いました。
芹が谷公園の入口に国際版画美術館が建つ
動く彫刻、水がザーッと落ちてくる
雲行きが怪しいなと思ったら夕立がきて、公園 の東屋でしばし雨宿り。小やみになったところで 町田駅へ向かい、4時過ぎに解散しました。
川崎市から出発し横浜市をかすめ町田市へと結 構歩いたわけですが、谷戸の風景、丘陵の住宅地、 緑につつまれた学園や公園などを楽しむことがで きました。なおこのコース、トイレが駅前と公園 にしかないことにご注意ください。
( 文と写真:高見澤 邦郎 )
点 と 線
今回のルートはいずれもよく見聞きしている場 所でしたが「点」を知っていただけで、フットパ スでそれらを結ぶ「線」を歩くことができ、面白 い経験でした。以前、和光大学から玉川学園に抜 けるルートを適当に歩きはじめ、山越え谷越えで エライ目にあったことがあります。今回、尾根沿 いルートを知り、目からウロコ。また、学園南側 尾根の、今回一緒に歩いたTさん宅の前の道は、 なんと鎌倉古道だという。「鎌倉古道沿いにお住 まい?」。歴史に隣接している暮らしのようでち ょっと羨ましい。これをきっかけに鎌倉古道その ものにも俄然興味が湧きました。
途中で立ち寄った玉川学園駅前の新装コミュニ ティセンター入口にはユニークなベンチが置かれ ています。駅前の樹齢92年の大ケヤキ 夏は大 空に緑の葉がそよぎ、冬は天に大枝を差しのべる 姿が「いってらっしゃい」「おかえり」と言って いるようでした。それが枯死し2017年に切り倒さ れたのを、町の人たちが希望して蘇らせたのです。 それが町内在住の木彫家・前田忠一(ただかず)さ んにより姿を変えてお目見えしています。背板の 両面には町田市の鳥・カワセミ、ウサギ、イヌ、 バク、ミミズクたちが浅彫りされ「ようこそ」
「またね」と。
大ケヤキがベンチになった(浅黄)
( 文:塩澤 珠江 )
他のまちのフットパスを見てみよう! 西荻~旧井萩町(村)を巡る
2021.05.23
他のまちのフットパスを見てみよう! 西荻~旧井萩町(村)を巡る
[講師:岩崎 英邦]
土地区画整理による 文化的郊外住宅地への進化を訪ねる
5月23日(日) 天気:晴 参加者:6名
旧井荻村(町)の地図です。上側は明治27年(1894)~大正4年(1915)の、下側は昭和3年(1929)~20年(1945)の地形図です。下側は既に土地区画整理が終わっています。同じような時期、田園調布や成城学園前では民間のデベロッパーによって拓かれ分譲されましたが、ここでは、大正14年(1925)から10年をかけ旧井荻村(町)という行政機関によって、全村(町)に渡って土地区画整理が行われました。総面積888町歩(約879ha)、単一の町村独自で行った事業としては全国屈指の大規模なものでした。優れた町づくりであったと同時に、近郊農村であった村(町)が郊外住宅地へと生まれ変わる基盤となったのです。
明治27年(1894)~大正4年(1915)の旧井萩村
昭和3年(1929)~20年(1945)の旧井萩村
旧井荻村(町)を今日は、①観泉寺→②桃井原 っぱ公園→井荻町役場跡(今日は寄りません)→
③荻窪八幡神社→④井荻町土地区画整理碑→⑤井 草八幡宮→⑥都立善福寺池公園→善福寺川沿い→ 西荻窪駅と歩きます。道すがら、真っ直ぐなこと 直角に交差していることなど道路を観察してくだ さい。土地区画整理を実感していただくことが旧 井荻村(町)巡りの目的です。
① 宝珠山観泉寺(杉並区今川2-16-1) 曹洞宗本尊は釈迦如来
戦国時代の名門今川氏ゆかりの寺として知られ ています。今川13代直房は、将軍家光の命を受け 東照大権現の宮号宣下の使者を勤めました。その 功により井草村など三ヶ村の加増を受けましたの で当寺を菩提寺と定め、祖父氏真を開基とし、万 昌院(現中野区)から祖父氏真の墓所を当寺に改 葬しました。
氏真は「桶狭間の戦」で織田信長によって父義元を失い、その後出家しましたが歌人としても多くの歌を残しています。当寺には上下井草村の古文書、板碑などが数多く保存されています。墓地には都指定旧跡の今川氏累代の墓があります。
今川家累代の墓(観泉寺)
旧井荻村四村は、江戸時代には上・下井草村は 今川氏領、上荻窪村は幕府直轄地、そして下荻窪 村は山王日枝神社領でした。当然年貢の率も違い、 村々に課せられている賦役も異なっていました。 成り立ちの違う四村が、明治22年(1889)町村制 施行に伴い合併したのです。観泉寺の住所の今川 は、今川氏に由来しています。観泉寺は今川氏の 領地支配の中心であり、ほかにも御菜園跡、行刑 屋敷跡、御茶園などが伝えられています。
②桃井原っぱ公園(杉並区桃井3-8-1) 中島飛行機発動機(株)東京工場跡地です。当社は「零式艦上戦闘機(零戦)」の「栄」や「寿」「誉」といった航空機のエンジンを設計・製造していました。戦後は富士産業(株)、富士精密工業(株)、プリンス自動車工業(株)と社名を変え、その後日産自動車(株)に合併されました。昭和28年(1953)、富士精密工業(株)は東京大学生産技術研究所(現文部科学省宇宙科学研究所)の指導を受けロケットの開発に着手。昭和30年(1955)にペンシルロケットの初フライトに成功し、これが日本のロケットの第1号となりました。
桃井原っぱ公園(中島飛行機・工場跡地)
大正14年(1925)中島飛行機発動機(株)東京工 場の誘致によって、井荻村は土地の有効活用、税 収の増大が見込まれたほか、周辺農家の次男坊・ 三男坊をはじめ子女への雇用創出、商店街の発展 や農家の現金収入をもたらした貸家の増加(農家 の地主化)など経済的・社会的な影響は計り知れ ないものがありました。
青梅街道際には、旧中島飛行機発動機発祥之地 の碑と並んでロケット発祥之地の碑もあり、ペン シルロケットが埋め込まれています。
ロケット発祥と旧中島飛行機発動機発祥之地の碑
「荻窪八幡神社」へは青梅街道を渡りますが、 荻窪駅方面左へ150mほど行くと、荻窪郵便局手 前に井荻村(町)役場跡の案内があります。逆に 右側へ行くと荻窪警察署、荻窪消防署があります。 この辺りが井荻村(町)の中心地だったのです。
③荻窪八幡神社(杉並区上荻4-19-2)
御祭神:応神天皇 社各等:村社 例大祭:9月
15日に近い日曜日この神社は旧上荻窪村の鎮守で、今から約1080年前の寛平年間に建立されたと伝えられています。
永承6年(1051)、源頼義が奥州の安倍貞任征伐の途中、ここに宿陣して戦勝を祈願。神恩に感謝して当社を厚く祭ったと言われています。
文明9年(1477)4月、江戸城主太田道灌は上 杉定正の命を受け石神井城主豊島泰経を攻めるにあたり、この神社に武 運を祈願しました。 この時植えたマキの樹1株が、500年の歳月が経 過した今も「道灌槙」と呼ばれ、御神木として大 切に保護されています。
荻窪八幡神社
④井荻町土地区画整理碑(杉並区善福寺1-33-1)
井草八幡宮東参道の北側、青梅街道沿いにあります。農家が主体となった土地区画整理によって農家自身が多大な収入・利益を得ることができました。井荻村(町)は土地区画整理に併せて大正10年(1921)に電灯を敷設し、井荻町水道を昭和5年(1930)に着工同7年(1932)3月に完成・給水を開始していま す。同年10月杉並区が誕生し編入され、井荻町は消滅しました。
井萩町土地区画整理碑
⑤井草八幡宮(杉並区善福寺1-33-1) 御祭神:八幡大神・応神天皇 社各等:郷社・別表 神社例大祭:9月30日~10月2日(3年に一度神 幸祭 5年に一度流鏑馬)
この神社は旧上、下井草村の鎮守です。明治時 代までこの付近の古い地名から,「遅野井八幡宮」 とも呼ばれていました。境内からは縄文時代中期
(約4000年前)の住居址が発見され、多くの土器 が発見されています。
当社は900余年の歴史をもつと伝えられ、社前 には源頼朝が文治2年(1186)奥州藤原泰衡征伐 の際、戦勝を祈願して手植えを寄進したという天 然記念物の大きなマツがありましたが、残念なが ら昭和48年(1973)枯れてしまいました。また、 江戸時代の慶安2年(1649年)徳川家光は、社殿 を造営させ朱印領六石を寄進しております。
都内の神社で一番広いのは明治神宮、二番は靖 国神社、三番は大宮八幡宮(杉並区)、四番目が 境内約一万坪の当社です。
井草八幡宮の大鳥居
都立善福寺池公園
本日、ご参加のみなさまと
善福寺川に沿って下り、西荻の町おこしの一環 として薮内佐斗司氏の「六童子」が設置してある 小さな街中の公園を訪ね歩いて、西荻窪駅に出ま した。
⑥都立善福寺池公園(杉並区善福寺2・3丁目) 善福寺池は井の頭池(都立井の頭恩賜公園)と
三宝寺池(都立石神井公園)に並んで武蔵野三大 湧水池として知られています。日本野鳥の会を設 立した中西悟堂氏が善福寺池の近くに住み、知人 等と野鳥の観察を行っていたことから「野鳥の聖 地」とも呼ばれているようです。
また善福寺川の水源となっているほか、東京都 水道局の杉並浄水所の水源にもなっています。23 区内の東京都水道局管轄の水道で、井戸を水源と しているのはここだけです。地下水の水質が良好 なため濾過は行わず今も消毒処理のみです。井荻 町水道はいまだに現役なのです。
六童子めぐり
(文: 岩﨑 英邦 写真:田邊)
[講師:岩崎 英邦]
土地区画整理による 文化的郊外住宅地への進化を訪ねる
5月23日(日) 天気:晴 参加者:6名
旧井荻村(町)の地図です。上側は明治27年(1894)~大正4年(1915)の、下側は昭和3年(1929)~20年(1945)の地形図です。下側は既に土地区画整理が終わっています。同じような時期、田園調布や成城学園前では民間のデベロッパーによって拓かれ分譲されましたが、ここでは、大正14年(1925)から10年をかけ旧井荻村(町)という行政機関によって、全村(町)に渡って土地区画整理が行われました。総面積888町歩(約879ha)、単一の町村独自で行った事業としては全国屈指の大規模なものでした。優れた町づくりであったと同時に、近郊農村であった村(町)が郊外住宅地へと生まれ変わる基盤となったのです。
明治27年(1894)~大正4年(1915)の旧井萩村
昭和3年(1929)~20年(1945)の旧井萩村
旧井荻村(町)を今日は、①観泉寺→②桃井原 っぱ公園→井荻町役場跡(今日は寄りません)→
③荻窪八幡神社→④井荻町土地区画整理碑→⑤井 草八幡宮→⑥都立善福寺池公園→善福寺川沿い→ 西荻窪駅と歩きます。道すがら、真っ直ぐなこと 直角に交差していることなど道路を観察してくだ さい。土地区画整理を実感していただくことが旧 井荻村(町)巡りの目的です。
① 宝珠山観泉寺(杉並区今川2-16-1) 曹洞宗本尊は釈迦如来
戦国時代の名門今川氏ゆかりの寺として知られ ています。今川13代直房は、将軍家光の命を受け 東照大権現の宮号宣下の使者を勤めました。その 功により井草村など三ヶ村の加増を受けましたの で当寺を菩提寺と定め、祖父氏真を開基とし、万 昌院(現中野区)から祖父氏真の墓所を当寺に改 葬しました。
氏真は「桶狭間の戦」で織田信長によって父義元を失い、その後出家しましたが歌人としても多くの歌を残しています。当寺には上下井草村の古文書、板碑などが数多く保存されています。墓地には都指定旧跡の今川氏累代の墓があります。
今川家累代の墓(観泉寺)
旧井荻村四村は、江戸時代には上・下井草村は 今川氏領、上荻窪村は幕府直轄地、そして下荻窪 村は山王日枝神社領でした。当然年貢の率も違い、 村々に課せられている賦役も異なっていました。 成り立ちの違う四村が、明治22年(1889)町村制 施行に伴い合併したのです。観泉寺の住所の今川 は、今川氏に由来しています。観泉寺は今川氏の 領地支配の中心であり、ほかにも御菜園跡、行刑 屋敷跡、御茶園などが伝えられています。
②桃井原っぱ公園(杉並区桃井3-8-1) 中島飛行機発動機(株)東京工場跡地です。当社は「零式艦上戦闘機(零戦)」の「栄」や「寿」「誉」といった航空機のエンジンを設計・製造していました。戦後は富士産業(株)、富士精密工業(株)、プリンス自動車工業(株)と社名を変え、その後日産自動車(株)に合併されました。昭和28年(1953)、富士精密工業(株)は東京大学生産技術研究所(現文部科学省宇宙科学研究所)の指導を受けロケットの開発に着手。昭和30年(1955)にペンシルロケットの初フライトに成功し、これが日本のロケットの第1号となりました。
桃井原っぱ公園(中島飛行機・工場跡地)
大正14年(1925)中島飛行機発動機(株)東京工 場の誘致によって、井荻村は土地の有効活用、税 収の増大が見込まれたほか、周辺農家の次男坊・ 三男坊をはじめ子女への雇用創出、商店街の発展 や農家の現金収入をもたらした貸家の増加(農家 の地主化)など経済的・社会的な影響は計り知れ ないものがありました。
青梅街道際には、旧中島飛行機発動機発祥之地 の碑と並んでロケット発祥之地の碑もあり、ペン シルロケットが埋め込まれています。
ロケット発祥と旧中島飛行機発動機発祥之地の碑
「荻窪八幡神社」へは青梅街道を渡りますが、 荻窪駅方面左へ150mほど行くと、荻窪郵便局手 前に井荻村(町)役場跡の案内があります。逆に 右側へ行くと荻窪警察署、荻窪消防署があります。 この辺りが井荻村(町)の中心地だったのです。
③荻窪八幡神社(杉並区上荻4-19-2)
御祭神:応神天皇 社各等:村社 例大祭:9月
15日に近い日曜日この神社は旧上荻窪村の鎮守で、今から約1080年前の寛平年間に建立されたと伝えられています。
永承6年(1051)、源頼義が奥州の安倍貞任征伐の途中、ここに宿陣して戦勝を祈願。神恩に感謝して当社を厚く祭ったと言われています。
文明9年(1477)4月、江戸城主太田道灌は上 杉定正の命を受け石神井城主豊島泰経を攻めるにあたり、この神社に武 運を祈願しました。 この時植えたマキの樹1株が、500年の歳月が経 過した今も「道灌槙」と呼ばれ、御神木として大 切に保護されています。
荻窪八幡神社
④井荻町土地区画整理碑(杉並区善福寺1-33-1)
井草八幡宮東参道の北側、青梅街道沿いにあります。農家が主体となった土地区画整理によって農家自身が多大な収入・利益を得ることができました。井荻村(町)は土地区画整理に併せて大正10年(1921)に電灯を敷設し、井荻町水道を昭和5年(1930)に着工同7年(1932)3月に完成・給水を開始していま す。同年10月杉並区が誕生し編入され、井荻町は消滅しました。
井萩町土地区画整理碑
⑤井草八幡宮(杉並区善福寺1-33-1) 御祭神:八幡大神・応神天皇 社各等:郷社・別表 神社例大祭:9月30日~10月2日(3年に一度神 幸祭 5年に一度流鏑馬)
この神社は旧上、下井草村の鎮守です。明治時 代までこの付近の古い地名から,「遅野井八幡宮」 とも呼ばれていました。境内からは縄文時代中期
(約4000年前)の住居址が発見され、多くの土器 が発見されています。
当社は900余年の歴史をもつと伝えられ、社前 には源頼朝が文治2年(1186)奥州藤原泰衡征伐 の際、戦勝を祈願して手植えを寄進したという天 然記念物の大きなマツがありましたが、残念なが ら昭和48年(1973)枯れてしまいました。また、 江戸時代の慶安2年(1649年)徳川家光は、社殿 を造営させ朱印領六石を寄進しております。
都内の神社で一番広いのは明治神宮、二番は靖 国神社、三番は大宮八幡宮(杉並区)、四番目が 境内約一万坪の当社です。
井草八幡宮の大鳥居
都立善福寺池公園
本日、ご参加のみなさまと
善福寺川に沿って下り、西荻の町おこしの一環 として薮内佐斗司氏の「六童子」が設置してある 小さな街中の公園を訪ね歩いて、西荻窪駅に出ま した。
⑥都立善福寺池公園(杉並区善福寺2・3丁目) 善福寺池は井の頭池(都立井の頭恩賜公園)と
三宝寺池(都立石神井公園)に並んで武蔵野三大 湧水池として知られています。日本野鳥の会を設 立した中西悟堂氏が善福寺池の近くに住み、知人 等と野鳥の観察を行っていたことから「野鳥の聖 地」とも呼ばれているようです。
また善福寺川の水源となっているほか、東京都 水道局の杉並浄水所の水源にもなっています。23 区内の東京都水道局管轄の水道で、井戸を水源と しているのはここだけです。地下水の水質が良好 なため濾過は行わず今も消毒処理のみです。井荻 町水道はいまだに現役なのです。
六童子めぐり
(文: 岩﨑 英邦 写真:田邊)
フットパス専門家講座 座間の旧集落から谷戸山公園へ
2021.05.16
フットパス専門家講座 座間の旧集落から谷戸山公園へ
[講師:浅黄 美彦]
地形の変化をたのしみ まちづくりの魅力を探る
5月16日(日)天気:曇り時々雨 参加者:9名
前回のフットパス専門家講座では、古街道研究 家の宮田先生のガイドにより、相原七国峠、高座 郡を見渡す相模野台地の奥の古道を歩きました。 今回も「高座郡」の真ん中あたり、相模川の中流 域にある神奈川県座間市の台地、丘陵、崖線を横 切るように地形を楽しみながら歩きました。
朝10時、小田急線相武台前駅改札に集合。まず は相武台前駅にある操車場と変電所を見て“昭和” を感じました。
操車場:相模川から砂利をトロッコ鉄道で相武台前駅に運 び、積み替えた集積所の跡地利用
小田急変電所:大正末期に建設された市内最古のRC建造物
相武台前駅から南へ少し歩くと、相模野台地を 削る谷戸にある「かにが沢公園」に着く。駅の直 近に谷の始まり「谷頭」が確認でき、スリバチビ ューを眺めることができます。
かにが沢公園からのスリバチビュー
細長い公園の斜面を下りながらさらに南へ。谷 底にある住宅地を抜けると、栗原遊水地に出ます。 相模野台地西端の崖下を源流とする目久尻川の遊 水池です。
目久尻川遊水地:2つの崖線に挟まれた3級スリバチ
遊水地西側の崖の階段を上った高台に、昭和40 年代初めに200戸ほど計画開発された第一住宅分 譲地があります。この住宅地は、地区計画制度が 指定された良好な戸建て住宅の環境が保たれてい ます。
市役所庁舎脇を通って「県立谷戸山公園」へ。 昭和59年にアーバンエコロジーパーク(都市の中 の自然生態観察公園)として都市計画決定され、 原地形を生かした公園として平成5年に開園しま した。
公園内の古道から見た大山
集合写真(田邊)
谷戸山のある座間丘陵は、戦前に陸軍士官学校(昭和12年開校戦後にキャンプ座間)、小田急の座間遊園地計画(林間都市計画の一環として用地取得するも戦争で中止となった。別荘地分譲を経て、戦後計画住宅地となった谷戸山公園の南側エリア)などにより大きく変貌しました。そうした中で座間丘陵の真ん中にある谷戸山は、里山の風景を残す貴重な場所であることがわかります。
谷戸山公園の西門を出て小田急線の小さな踏切 を渡ると星谷寺。坂東33番札所のひとつです。昼 間でも星が映るといわれている井戸をちらりと見 ながら、すでに午後1時を過ぎているので、急ぎ 鈴鹿明神社近くの蕎麦屋へ向かいました。
午後は相模川河岸段丘の崖下の自然堤防上にあ る旧集落「鈴鹿・長宿地区」へ。かつて近郊のど こにでもあった旧集落の佇まいを今も残すまちを 歩きました。
1990年頃から少しずつ丹念に地域とともにまち づくりを進めてきたエリアです。地区の骨格とな る崖線の緑(ハケ)は、特別緑地保全地区として 保全し、用途地域は第1種低層住居専用地域にダ ウンゾーニング。建物の意匠、形態などよりきめ 細かなルールは、街づくり協定と景観条例。道路、 水路、広場の整備は街並み環境整備事業など、目 標に沿っていくつかの手法を重ねて、何気なくほ っとする街なみづくりを進めてきた地区です。
座間の航空写真:キャンプ座間、谷戸山、計画住宅地
鈴鹿の街なみ
鈴鹿長宿から座間駅への帰り道は、心岩寺横の 崖線の急な階段を上り、最後の力を絞ってもらい 坂のまち座間を体感してもらいました。最後に座 間駅前にある小田急電鉄の社宅をリノベーション したホシノタニ団地にあるランドリーカフェで歓 談して解散。ここも戦前は砂利置き場であった場 所でした。
いつもの多摩丘陵とは違う相模野台地西端の丘陵の公園と、崖沿いの旧集落を案内させていただ
きました。
(文と写真:浅黄 美彦)
[講師:浅黄 美彦]
地形の変化をたのしみ まちづくりの魅力を探る
5月16日(日)天気:曇り時々雨 参加者:9名
前回のフットパス専門家講座では、古街道研究 家の宮田先生のガイドにより、相原七国峠、高座 郡を見渡す相模野台地の奥の古道を歩きました。 今回も「高座郡」の真ん中あたり、相模川の中流 域にある神奈川県座間市の台地、丘陵、崖線を横 切るように地形を楽しみながら歩きました。
朝10時、小田急線相武台前駅改札に集合。まず は相武台前駅にある操車場と変電所を見て“昭和” を感じました。
操車場:相模川から砂利をトロッコ鉄道で相武台前駅に運 び、積み替えた集積所の跡地利用
小田急変電所:大正末期に建設された市内最古のRC建造物
相武台前駅から南へ少し歩くと、相模野台地を 削る谷戸にある「かにが沢公園」に着く。駅の直 近に谷の始まり「谷頭」が確認でき、スリバチビ ューを眺めることができます。
かにが沢公園からのスリバチビュー
細長い公園の斜面を下りながらさらに南へ。谷 底にある住宅地を抜けると、栗原遊水地に出ます。 相模野台地西端の崖下を源流とする目久尻川の遊 水池です。
目久尻川遊水地:2つの崖線に挟まれた3級スリバチ
遊水地西側の崖の階段を上った高台に、昭和40 年代初めに200戸ほど計画開発された第一住宅分 譲地があります。この住宅地は、地区計画制度が 指定された良好な戸建て住宅の環境が保たれてい ます。
市役所庁舎脇を通って「県立谷戸山公園」へ。 昭和59年にアーバンエコロジーパーク(都市の中 の自然生態観察公園)として都市計画決定され、 原地形を生かした公園として平成5年に開園しま した。
公園内の古道から見た大山
集合写真(田邊)
谷戸山のある座間丘陵は、戦前に陸軍士官学校(昭和12年開校戦後にキャンプ座間)、小田急の座間遊園地計画(林間都市計画の一環として用地取得するも戦争で中止となった。別荘地分譲を経て、戦後計画住宅地となった谷戸山公園の南側エリア)などにより大きく変貌しました。そうした中で座間丘陵の真ん中にある谷戸山は、里山の風景を残す貴重な場所であることがわかります。
谷戸山公園の西門を出て小田急線の小さな踏切 を渡ると星谷寺。坂東33番札所のひとつです。昼 間でも星が映るといわれている井戸をちらりと見 ながら、すでに午後1時を過ぎているので、急ぎ 鈴鹿明神社近くの蕎麦屋へ向かいました。
午後は相模川河岸段丘の崖下の自然堤防上にあ る旧集落「鈴鹿・長宿地区」へ。かつて近郊のど こにでもあった旧集落の佇まいを今も残すまちを 歩きました。
1990年頃から少しずつ丹念に地域とともにまち づくりを進めてきたエリアです。地区の骨格とな る崖線の緑(ハケ)は、特別緑地保全地区として 保全し、用途地域は第1種低層住居専用地域にダ ウンゾーニング。建物の意匠、形態などよりきめ 細かなルールは、街づくり協定と景観条例。道路、 水路、広場の整備は街並み環境整備事業など、目 標に沿っていくつかの手法を重ねて、何気なくほ っとする街なみづくりを進めてきた地区です。
座間の航空写真:キャンプ座間、谷戸山、計画住宅地
鈴鹿の街なみ
鈴鹿長宿から座間駅への帰り道は、心岩寺横の 崖線の急な階段を上り、最後の力を絞ってもらい 坂のまち座間を体感してもらいました。最後に座 間駅前にある小田急電鉄の社宅をリノベーション したホシノタニ団地にあるランドリーカフェで歓 談して解散。ここも戦前は砂利置き場であった場 所でした。
いつもの多摩丘陵とは違う相模野台地西端の丘陵の公園と、崖沿いの旧集落を案内させていただ
きました。
(文と写真:浅黄 美彦)
草刈りのご褒美 タツナミソウの群生に出合う!
2021.05.15
草刈りのご褒美 タツナミソウの群生に出合う!
5月15日(土)天気:晴 参加者:6名
半年ぶりの緑地は、小さな子の背丈ほどにも雑 草が生い茂っていた。それでも久しぶりの森林浴 でマイナスイオンを頂戴し、身体中がほぐれてい くような開放感がある。
手分けして草刈りに精出し、一輪車にまとめて は運んで積み上げた。
一段落したところで鈴木さんが「そういえば、2~3年前にタツナミソウ見つけたんだけど、この辺りにまだたくさんあるのね」と。早速彼女の案内で探索に出かける。途中、皆が歩く雑草の中には赤い実があちこちに。可愛らしい! 「グミかしら」、「木苺かと思った‥‥‥」と楽しい。
本当はウグイスカグラの実だということが後で分かった。でも食べられるらしい。
草地と雑木林の斜面を分ける小川の辺りで、大 きな木の根元一面にタツナミソウ発見! 紫の花 びらを波頭のようにくるっと巻いた姿で群生して いる。感動! 大切に護らなくては。
(新納 清子)
今年のタケノコの出来具合は?(神谷)
恒例のタケノコ汁のお味は?(神谷)
5月15日(土)天気:晴 参加者:6名
半年ぶりの緑地は、小さな子の背丈ほどにも雑 草が生い茂っていた。それでも久しぶりの森林浴 でマイナスイオンを頂戴し、身体中がほぐれてい くような開放感がある。
手分けして草刈りに精出し、一輪車にまとめて は運んで積み上げた。
一段落したところで鈴木さんが「そういえば、2~3年前にタツナミソウ見つけたんだけど、この辺りにまだたくさんあるのね」と。早速彼女の案内で探索に出かける。途中、皆が歩く雑草の中には赤い実があちこちに。可愛らしい! 「グミかしら」、「木苺かと思った‥‥‥」と楽しい。
本当はウグイスカグラの実だということが後で分かった。でも食べられるらしい。
草地と雑木林の斜面を分ける小川の辺りで、大 きな木の根元一面にタツナミソウ発見! 紫の花 びらを波頭のようにくるっと巻いた姿で群生して いる。感動! 大切に護らなくては。
(新納 清子)
今年のタケノコの出来具合は?(神谷)
恒例のタケノコ汁のお味は?(神谷)