他のまちのフットパスをみてみよう 奥浅草から吉原への山谷堀と日本堤を歩く
2025.06.22
[講師:みどりのゆび 浅黄 美彦・神谷 由紀子]
6月22日(日)天気:晴 参加者:12名
NHK大河ドラマ「べらぼう」の舞台である吉原とその道筋、山谷堀と日本堤を歩いてみようというものです。
「二天門」に10時集合という渋い選択をしてみました。戦災にあった「浅草寺」は、本堂・門・塔などほとんどがRC(鉄筋コンクリート)の建築ですが、二天門と「浅草神社」本殿は、江戸時代の建物です。江戸の建物を眺めながら、まずは浅草寺裏にある「浅草寺支院・集合住宅(1932年築)」前を通り、浅草神社の裏側にある「被官稲荷社」へ。幕末、新門辰五郎が勧請したという渋い稲荷社でした。

二天門

被官稲荷社
言問通りを渡り芝居町猿若町を通り、「待乳山昇天」へ。旧芝居町はかつての芝居小屋があった碑のみで、その雰囲気を感じることはできませんが、江戸歌舞伎の始祖・猿若勘三郎の名からつけられた。江戸末期の芝居町「猿若町」を歩くことだけでも、楽しいような気がしてきます。
隅田川方向に少し進むと10mほどの高台が待乳山昇天。隣接する公園内には、ここで生まれた作家・池波正太郎の碑がある。「大川の水と待乳山昇天宮は、私のふるさとのようなものだ」と記している。
待乳山昇天を北へ抜けると、今回のフットパスのテーマのひとつ「山谷堀と日本堤を歩く」の入口です。山谷堀は昭和50年代に暗渠となり、その上部を台東区が公園として整備しています。
幅9m、長さ750m、緑道とせず公園として整備しているのも面白い。
「今戸橋」、「吉野橋」、「山谷堀橋跡」など通り、途中「今戸神社」にも立ち寄り小休止しながら、「山谷堀公園」にある歴史解説板を読みながら吉原へ向かいました。

山谷堀公園

今戸神社
日本堤通りに出て「見返り柳」のところを左折、S字の五十間道を下ると「吉原大門跡」に辿り着きます。極楽とこの世の間が五十間という川柳のとおり、遊郭という特殊な世界との境界です。
この通りの左側に蔦屋重三郎は書店を開き、吉原のガイドブック『𠮷原細見』を売って名をあげたという。大門脇にあった「松葉屋」はすでにマンションとなっており、吉原の痕跡、おはぐろどぶの石垣、遊郭「大文字屋」跡の「吉原公園」、「吉原神社」、わずかに残る吉原カフェ建築など、吉原の点在するスポットを巡ってきました。

吉原神社集合写真

吉原カフェ建築
吉原の町中華や喫茶店に分かれて昼食をとり、「一葉記念館」へ。木造のアパートのような旧一葉記念館も趣がありましたが、2006年に建替えられた記念館は、東京都現代美術館の設計者、柳澤孝彦氏の手によるものです。一昨年の三ノ輪フットパスでも訪ねておりますので、近くのあんみつ屋さん組と一葉記念館組に分かれ、休憩も兼ねて各々赴くままにのんびりとした時を過ごしました。
いよいよ最後の目的地、三ノ輪の「浄閑寺」へ。“投込寺”とも呼ばれ、花又花酔の川柳「生まれては苦界死しては浄閑寺」と詠まれた碑が切ない。新吉原供養塔の向かい側には、遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、永井荷風が詩碑を残している。文学に詳しい方に解説していただき、より深く味わうことができました。また、参加者の一人が詩碑の建立の日が6月22日と気づき、当日のこの場所を訪ねた奇遇で盛り上がったところで解散となりました。
(文と写真:浅黄 美彦)
私は、吉原詣は二回目だった。前回は地下鉄三ノ輪から「目黄不動尊」にお参りし、吉原の方へ向かった。今回は浅草寺の二天門に集合して歩く。二天門は浅草神社の近くにあり、雷門辺りより人が少ないので覚えておきたい所だ。
厳かで風格のある「今戸神社」は招き猫発祥の地で、入口には大きな招き猫が二体飾られている。また縁結びなどのご利益があるとのことで、絵馬にも招き猫が二体描かれている。 木陰で自己紹介をしたり、熱中症にならないように対策をとる。
「 山谷堀公園」は隅田川に近いからか風が通り心地よかった。公園内にミニサイズの猪牙舟(ちょきぶね)や今戸焼の招き猫などがオブジェのように並べられていた。地元の歴史や産業の一部が分かりやすくて「いいね!」の声が多かった。
「地方橋」と書いて「じかたはし」 。ここを曲がって更に広い通りまで歩いて行くと、遠くに小さな緑が見えた。「見返りの柳」?
衣紋坂の先には、某局のテレビドラマとタイアップして蔦屋重三郎の「耕書堂」を模した観光案内所ができていた。若い人も増えていて、以前より活気を感じた。
「 浄閑寺」にお参りしてから地下鉄三ノ輪駅にて解散する。私は少し歩いて、念願の都電荒川線に乗り帰路につく。
電車が動き出すときの合図の「チンチン」の音を懐かしく聞いていた。
(文:新納 清子)

木陰で一休み(写真:神谷)
大河ドラマ「べらぼう」の舞台は今
6月22日(日)天気:晴 参加者:12名
NHK大河ドラマ「べらぼう」の舞台である吉原とその道筋、山谷堀と日本堤を歩いてみようというものです。
「二天門」に10時集合という渋い選択をしてみました。戦災にあった「浅草寺」は、本堂・門・塔などほとんどがRC(鉄筋コンクリート)の建築ですが、二天門と「浅草神社」本殿は、江戸時代の建物です。江戸の建物を眺めながら、まずは浅草寺裏にある「浅草寺支院・集合住宅(1932年築)」前を通り、浅草神社の裏側にある「被官稲荷社」へ。幕末、新門辰五郎が勧請したという渋い稲荷社でした。

二天門

被官稲荷社
言問通りを渡り芝居町猿若町を通り、「待乳山昇天」へ。旧芝居町はかつての芝居小屋があった碑のみで、その雰囲気を感じることはできませんが、江戸歌舞伎の始祖・猿若勘三郎の名からつけられた。江戸末期の芝居町「猿若町」を歩くことだけでも、楽しいような気がしてきます。
隅田川方向に少し進むと10mほどの高台が待乳山昇天。隣接する公園内には、ここで生まれた作家・池波正太郎の碑がある。「大川の水と待乳山昇天宮は、私のふるさとのようなものだ」と記している。
待乳山昇天を北へ抜けると、今回のフットパスのテーマのひとつ「山谷堀と日本堤を歩く」の入口です。山谷堀は昭和50年代に暗渠となり、その上部を台東区が公園として整備しています。
幅9m、長さ750m、緑道とせず公園として整備しているのも面白い。
「今戸橋」、「吉野橋」、「山谷堀橋跡」など通り、途中「今戸神社」にも立ち寄り小休止しながら、「山谷堀公園」にある歴史解説板を読みながら吉原へ向かいました。

山谷堀公園

今戸神社
日本堤通りに出て「見返り柳」のところを左折、S字の五十間道を下ると「吉原大門跡」に辿り着きます。極楽とこの世の間が五十間という川柳のとおり、遊郭という特殊な世界との境界です。
この通りの左側に蔦屋重三郎は書店を開き、吉原のガイドブック『𠮷原細見』を売って名をあげたという。大門脇にあった「松葉屋」はすでにマンションとなっており、吉原の痕跡、おはぐろどぶの石垣、遊郭「大文字屋」跡の「吉原公園」、「吉原神社」、わずかに残る吉原カフェ建築など、吉原の点在するスポットを巡ってきました。

吉原神社集合写真

吉原カフェ建築
吉原の町中華や喫茶店に分かれて昼食をとり、「一葉記念館」へ。木造のアパートのような旧一葉記念館も趣がありましたが、2006年に建替えられた記念館は、東京都現代美術館の設計者、柳澤孝彦氏の手によるものです。一昨年の三ノ輪フットパスでも訪ねておりますので、近くのあんみつ屋さん組と一葉記念館組に分かれ、休憩も兼ねて各々赴くままにのんびりとした時を過ごしました。
いよいよ最後の目的地、三ノ輪の「浄閑寺」へ。“投込寺”とも呼ばれ、花又花酔の川柳「生まれては苦界死しては浄閑寺」と詠まれた碑が切ない。新吉原供養塔の向かい側には、遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、永井荷風が詩碑を残している。文学に詳しい方に解説していただき、より深く味わうことができました。また、参加者の一人が詩碑の建立の日が6月22日と気づき、当日のこの場所を訪ねた奇遇で盛り上がったところで解散となりました。
(文と写真:浅黄 美彦)
蔦重の「耕書堂」を模した観光案内所も活気づいて
私は、吉原詣は二回目だった。前回は地下鉄三ノ輪から「目黄不動尊」にお参りし、吉原の方へ向かった。今回は浅草寺の二天門に集合して歩く。二天門は浅草神社の近くにあり、雷門辺りより人が少ないので覚えておきたい所だ。
厳かで風格のある「今戸神社」は招き猫発祥の地で、入口には大きな招き猫が二体飾られている。また縁結びなどのご利益があるとのことで、絵馬にも招き猫が二体描かれている。 木陰で自己紹介をしたり、熱中症にならないように対策をとる。
「 山谷堀公園」は隅田川に近いからか風が通り心地よかった。公園内にミニサイズの猪牙舟(ちょきぶね)や今戸焼の招き猫などがオブジェのように並べられていた。地元の歴史や産業の一部が分かりやすくて「いいね!」の声が多かった。
「地方橋」と書いて「じかたはし」 。ここを曲がって更に広い通りまで歩いて行くと、遠くに小さな緑が見えた。「見返りの柳」?
衣紋坂の先には、某局のテレビドラマとタイアップして蔦屋重三郎の「耕書堂」を模した観光案内所ができていた。若い人も増えていて、以前より活気を感じた。
「 浄閑寺」にお参りしてから地下鉄三ノ輪駅にて解散する。私は少し歩いて、念願の都電荒川線に乗り帰路につく。
電車が動き出すときの合図の「チンチン」の音を懐かしく聞いていた。
(文:新納 清子)

木陰で一休み(写真:神谷)