•  フットパス活動の記録

池ありつり、橋ありの 緑の起伏を楽しむ
2020.09.20
9月20日(日)天気:晴 参加者:3名

 コロナで遠出は自粛され、多摩丘陵フットパス 第一回目がこの小山田緑地でした。
 「扇橋」バス停から歩き始め、木道を通り、ヒガンバナが咲き始めた脇道を登り、竹やぶから珍しいナンバンギセルを見つけました。
 アサザ池に着き、ジュウガツザクラ(十月桜)の咲くあずまやで昼食を。田んぼが続き稲穂が実り、脇道に水車があり、ここが、町田だったかと思った程です。サービスセンターに寄り、脇道を登ると、間もなくつり橋が見えて、ワクワクしながら渡りました。
 紅葉の季節はどんなに綺麗かと想像し、また訪れたいと思ったことでした。いろいろなコースもあり、歩きがいのある場所でした。
(井上メイ子)


2020.09.20 00:00 | 固定リンク | 未分類
小山田
2020.09.20
万葉集縁の遺構や丘陵の原風景をとどめる

今回の散策地である小山田緑地は平成2年、多 摩ニュータウン造成に伴い造られた都立の自然公 園である。多摩丘陵の原風景をそのままとどめて いる。

又、ここは歴史の宝庫でもある。

縄文時代草創期(約7,000年前)には既に人が住 んでいたことが発掘によって明らかになっている。

公園に隣接する「多摩よこやまの道」は多摩丘 陵の尾根部に位置し、古代より武蔵野と相模野の 境の高台として、西国と東国を結ぶ道、鎌倉街道、 奥州古道、奥州廃道、古代東海道の痕跡も縦横に 見られ交通の要衝であった。特に奥州古道、奥州 廃道を介して陸奥の国より、良馬の供給があった と思われる。この「よこやまの道」とは万葉集の 中の防人(さきもり)の歌に見られ



あかごま やまの はが と
 赤駒 を 山野に放し 捕りかにて

たま よこやま かし    や
多摩の 横山  徒歩  ゆか遣らむ


と宇遅部黒女(うじべのくろめ)が詠んだ歌に因 んでいる。赤駒を山野に放牧して捕えられず、防 人として九州に赴任する夫に多摩の横山を歩かせ てしまうのだろうか。と夫を気遣う哀しい妻の心 情が溢れる歌である。ほとんどの防人は再び故郷 に戻ることはなかったのである。


9世紀中後期、小山田は石清水八幡宮の社地で あった。
12世紀になって、秩父平氏の畠山重忠の叔父 であった有重が別当として支配し、小山田氏を名 乗った。有重ははじめ平家に仕えていたが後に源 頼朝に仕えた。子供の小山田次郎重義、稲城三郎 重成(政子の同母妹を妻としている)、榛谷四郎 重朝、小山田五郎行重の兄弟は頼朝の重臣として 活躍している。頼朝の死後、北条時政の陰謀によ り畠山氏と親族の小山田氏の主流は滅亡に追い込 まれている。

「みはらし広場」からの富士山。蛭が岳、丹沢山、大山までも


鎌倉時代の馬の牧遺構。駆けまわる子ども達の姿も

又、隣にある補陀山大泉寺は有重の居館跡で小 山田城のあった所とされ、墓地には小山田高家の 顕彰碑がある。高家は行重の末裔とされ、建武の 中興後、新田義貞の侍大将となり、湊川の戦いで 義貞の危急を自分の馬を差し出す事で救い、自身 は壮絶な戦死を遂げたと太平記にある人物である。 丘陵地のコナラ、クヌギ、シラカシ等の雑木林や 草地や池等、谷戸の自然がそのまま残ったこの公 園は縄文人や万葉びとや鎌倉びと等のいにしえを 知る事によって、彼らと共に、又新たに楽しい散 策が出来そうな気がする。

(N.K)
2020.09.20 00:00 | 固定リンク | フットパス