•  フットパス活動の記録

里山保全活動
2019.06.23
6 月23 日(日)
緑地の原っぱは、日頃石垣さんが手入れをして下さっているので、この日は草刈りをしなくても済みました。ただ案の定、水辺でブタクサがのびのびと育っていて、これは種を飛ばす前に抜いてしまわないと、翌年厄介な事になります。神谷さんと二人で、隣の敷地の分まで次々と抜きました。茎を持って引っ張ると面白いように根っこごと抜けます。1 時間半程で作業を終えました。
(鈴木 由美子)
ワインの醸造所を巡って 勝沼フットパス
2019.06.02
ワインの醸造所を巡って
勝沼フットパス
6 月2 日(日) 天気:晴 参加者:6 名
講師:室伏 徹 (山梨県考古学協会事務局長)
1) 宮光園
晴れた朝、09:45 勝沼ぶどう郷駅にめいめい集合。
駅からタクシーに分乗し下岩崎の「宮光園」に直行。
勝沼フットパス中村氏、三森氏からご挨拶があり、今は葡萄摘果作業で超繁忙期のため、代りに元役場職員で現在考古学協会事務局長を務められている室伏氏に案内を依頼したとの説明を受けた。
宮光園は日本における近代ワイン醸造販売の先駆者である宮崎光太郎氏の住居。元は雄壮な養蚕農家建築ながら昭和初期に二階は洋風改築され、ワイン醸造と葡萄園観光の拠点として、戦前は皇族も訪れることもあったほどで、経済産業省から近代化産業遺産の指定を受けている。
明治初期、大久保利通が提唱した殖産興業政策の下、甲府盆地東部では伝統的養蚕業に加え、文明開化に相応しい新産業として藤村紫朗県令はワイン事業を鼓舞奨励した。明治10 年祝村に設立された葡萄酒会社から高野正誠、土屋龍憲の2 名がフランスのシャンパーニュ地方に派遣され、多角的なワイン醸造業を学んで1 年半後に帰国した。彼等を待ち侘びていた宮崎光太郎他の篤農家と共に本格的ワイン醸造を開始したが、ワイン事業は順調には進まなかった。地元住民も祭礼時はもとより日常的に一升瓶ワインを飲んで協力するが、甘味ワインは売れても本格的ワインの商業的成功は、第二次大戦後日本の経済成長を待たなくてはならなかった。戦時は葡萄は潜水艦音波探知機製造用の酒石酸抽出用となり、ワインは絞りかすを使う有り様で品質を落とした。
また、宮光園に残されていた宣伝映画用35mm フィルムから最近編集されたDVD は、葡萄栽培から醸造、樽輸送、壜詰、販売に至る往時のワイン業の流れが分かる貴重な映像資料で一見の価値あり。役場時代、この映像制作にも携わられた室伏氏から詳細に解説していただいた。
2) ワイン資料館
宮光園の向かいに明治37 年建造された宮崎第二醸造所は、洋式木造トラス構造と和風漆喰なまこ壁を有する和洋折衷の建物で、現存する日本最古のワイン醸造所である。今は近代化産業遺産に登録され、改装されてシャトー・メルシャン・ワイン資料館として公開されている。
我々は幸いにも前シャトー・メルシャン醸造長の上野 登館長に、時間を掛けてゆっくりご説明いただいた。宮崎光太郎が白蔵(白ワイン醸造所)として建設した建物内部では映像紹介があり、写真を中心に解説文も見易いパネル形式で掲示されている。展示物は蝋栓された明治のワインを始めとして、竹編みの葡萄収穫篭、木造の破砕器、醸造樽、貯蔵樽、その他醸造器具類が並ぶ。半地下貯蔵庫には大樽が並べられ、その外には水路や水車装置も残されており、写真で見た当時の法被姿作業員が醸造所の内外で忙しく立ち回る姿が目に浮かんで来る。また、今や欧州にも輸出されるに至った当地甲州種白ワインの原点を垣間見た思いがした。
3) メルシャン・ワインギャラリー
宮崎光太郎のワイン事業は、大黒葡萄酒からオーシャンを経てメルシャンへと引き継がれ、メルシャンは現在キリン・グループ傘下に入り日本における最大生産量ワインメーカーとなっている。
資料館の横にはガラス張りのシャトー・メルシャン・ワインギャラリーが建てられ、ワインの試飲や土産物を購入出来る。
皆が買い物をしている間に、小生は高価で普段飲めない北信シャルドネMH2015 を試飲した。品質に拘った純国産ワインである。上品な酸味によって裏打ちされた清涼な香りと鋭いミネラル感に日本の高級白ワインらしい好印象があり、季節の和食や海鮮イタリアンと合わせてすいすい飲みたい。
4) 慶千庵
昼食は日川を渡って直ぐの古民家改装食堂で、甲州名物ほうとうをいただく。静かで落ち着いた雰囲気のなか、出て来るのは早いものの具はしっかり煮込まれており、自家製味噌を使用した何だかほっとする味わいを楽しんだ。
5) 護念寺
戊辰の役、勝沼の戦いで戦死した官軍側鳥取藩士某の墓に参る。近藤 勇に率いられた新撰組、穢多非人、多摩農兵の混成部隊から成る訓練不足の幕府軍は、山梨一町田中の戦いで板垣退助、谷 干城率いる官軍に容易く破られる。勝沼柏尾で態勢を立て直し対峙したが、相次ぐ脱走で兵力の数、質とも相手にならず1 時間程度戦闘した後、早々と江戸へ敗走した由。(室伏
氏)
6) マルサン葡萄酒
旧甲州街道沿いにある家族経営の小規模地元ワインメーカーである。試飲すると昔懐かしい地元葡萄酒の味がした。地元住民御用達の一升瓶入りワインも出している。
秋なら庭の葡萄棚から摘み取った生葡萄も食べられそうな、農家然とした雰囲気が楽しい。
7) 旧田中銀行
明治31 年勝沼郵便電信局舎として田中家によって建てられた藤村式偽洋風の木造建築であり、土蔵、繭蔵を含めて近代化産業遺産に登録されている。郵便局、銀行、住居として順次改装しながら活用された後、今は勝沼町に寄贈されて博物館として公開されている。銀行時代は繭や米を担保に農家に融資したようで、産品出荷所としても機能していたため蔵が複数あった。本館は組石造り風の漆喰壁や木目調のペンキ塗り扉など、模造の域を超えた素晴らしい職人技に驚いた。
8) 原茂ワイン
原という地名と当主の世襲名、茂左衛門から名付けられた大正14 年創業の小規模メーカー。現当主が同業若手経営者研究サークルの中から得た新しい経営手法で、醸造技術を向上させると共に古民家改装ワインギャラリーやカフェを開設した。その結果、近代的で魅力あるワインを醸し、ワインツーリストが喜ぶワイナリーに脱皮している様子に感心した。
ご当地甲州種によるシュールリー製法ワインは、リーズナブルな値付けと先行メーカーと遜色ない品質で、しっかりした酸味が日々の和食を豊かに彩ってくれそうである。
9) 縁側茶房
当初は続いて公営「ぶどうの丘」を訪ねる予定であったが、時間的に厳しくなり勝沼ぶどう郷駅に向かう。狭い古街道を通り抜け葡萄畑に挟まれた坂道を登って行くと、築150 年の古民家を改装した「縁側茶房」があったので一休み。人気のぶどうピッツァに心惹かれたが、時間がないためホットコーヒーで一服。
10) 快速ビューやまなし
冬季を除く土日祝日に2 階建て215 系で運行される快速電車。幸いにも2 階自由席に座れ、歓談しているうちに立川に着いた。
(合田 英興)
2019.06.02 13:31 | 固定リンク | フットパス
東京フットパス 赤坂
2019.05.26
東京フットパス 赤坂

5 月26 日(日) 天気:晴 参加者:15 名

赤坂から六本木までは岬で、その頂点が東京タワー、その東側の東京は全部海の中だったのをご存知です
か。
今回はそれを確かめる「ブラみどり」。
 なんで赤坂(元は茜坂)が名前の通り坂が多いか、溜池が海だったこともこれでよくわかります。元NHKの電波塔があった愛宕は岬の突端でした。
 そして東京の地形のお決まり。丘の上の高台には武士、寺、のお屋敷町、そして谷に庶民の住宅地、その間を繋ぐ傾斜地に神社。昔から山の手にはセレブが住んでいたのですね。勝海舟は赤坂の中で3 回、一ツ木の川底にあった貧乏家から氷川神社の坂途中、そしてアメリカ大使館宿舎のある高級住宅地へと階級が上がるにつれて家を変えています。
 時代が変わっても高台は、大企業やホテルのセレブに取って代わられ、赤坂から、アカサカサカス、氷川神社、ホテルオークラの3 つの尾根を縦走すると、東京タワーに着きます。
増上寺も愛宕から続く岬の高台の上にあります。この岬いっぱいに増上寺が有していた敷地が広がり、戦後は貴族や寺の敷地を買いあさっていた西武の堤康次郎の持ち物となり、プリンスホテルとなりました。
帰りは六本木の鳥居坂上にある岩崎小弥太邸、国際文化会館でお庭を楽しみながらお茶で打ち上げを。帰りかけたら、ちょうど六本木を来日したトランプ大統領が通るところで、面白いオマケがついた1 日でした。
<以下「みどりのゆび」facebook ページに掲載された感想>
 久しぶりの東京フットパス。炎天下でしたが、ビル群が里山の雑木林のように木陰を作り、風もあり、比較的快適でした。2万5千歩(17.5km)、コンクリート道路歩きで、足の裏が痛くなったが、でも、▲2540kcal でダイエットかな?

 神谷さんガイドの東京フットパスです。赤坂見附、東京タワー、六本木あたりは縄文海進時代は海岸線であった。地理院のデジタル地形図と現代の地図を照らし合わせながら街の変遷を振り返る東京フットパスです。台地と低地の港区には、坂が90近くもあり、昔の人が名付けた坂の名前も面白い。高台の元大名屋敷や旗本屋敷跡は、現在は、邸宅、外国大使館、ホテルやショピング街へ大きく変遷しています。赤坂見附から赤坂氷川神社、愛宕神社、東京タワー、増上寺などへの道を楽しみました。トランプ大統領来日の厳戒警戒のなかのフットパスでした。(田邊博仁)
(神谷 由紀子)
2019.05.26 13:14 | 固定リンク | フットパス
新たに草木塔が建立
2019.05.18
5 月18 日(土)
 本会のフィールドである町田市小野路で「草木塔」の建立式が行われました。東京にあって都市計画を変更して緑を残すことに住民が決めた小野路で、その地主さんたちが草木塔を建立するということは本当に感慨深いものがありました。
 草木塔とは、仏教で「自然の恵みに感謝し、草木にも命があり、それを絶って我々は生かされている」という思想に基づいて建てられる石造の草木供養塔です。元々は、米沢藩主上杉鷹山が、江戸藩邸や米沢市内で大火があった後に大量の樹木を伐採したことに対する感謝の念で1780 年に建てたものが始まりとされています。したがって山形県置賜地方に最も多く、100 基以上の草木塔があり、フットパスの仲間である川西町や長井市にもあります。山形を含めて全国で200 基ほどが見つかっており、東京にも10 基以上発見されています。
 なぜ小野路で草木塔が新たに建てられることになったかというと、この度、小野路で1740 年(元文年間)頃に建てられた草木塔が、いまだに東京で養蚕を続けている嶋野幸夫さんの屋敷で発見されたのです。
 上杉鷹山の草木塔が1780 年建立だということであると、この嶋野さんの草木塔が日本で一番古いものということになります。
 「浅間山噴火、百姓一揆、イナゴの大発生など、小野路でも食糧事情が悪く苦労した時に建てられたもの」と小野路の「草木塔を建てる会」の小島政孝会長は推察されています。「飢饉のときには山野に自生する草や木から食物をとり命をつないできた。小野路村の面積の半分は山林であり、雑木林が多く、大量の炭を江戸に運んだり、繭を作ったりして生活してきました。これらは重要な産業であり、過去のこととして今は忘れられているが、自然の恩恵に感謝することは未来に向けて伝えていかなければならない大切なメッセージです」。
 今回、元副市長の高山氏からの提案を受けて、小島会長以下地主さんたちの協力や石材の寄付などがあって、「草木塔を建てる会」が組織され、草木塔の建立にいたりました。
 よそ者の私も小野路の方々のご厚意で「草木塔を建てる会」に入れていただけたので、草木供養祭に参加することができました。
 フットパスの仲間である長井や川西とも共有する先人の知恵に触れて、今更ながらいろいろ感じいるところがありました。
(神谷 由紀子)


小島政孝会長


草木供養祭に参加

環境教育
2019.04.27
 今年で4年目になり、多くの方が参加するようになりました。町田市小野路は、東京の都心から近いところにありますが、豊かな自然が残されています。参加される皆さんには、里山の自然でいろいろな遊びを体験していただき、人と自然の関わりについて考え、今後も大切にしていこうという気持ちを育てています。
 この活動は「子どもゆめ基金」の助成を受けて実施しています。

4 月27 日(土)天気:曇のち雨 参加:2 家族4 人

実施の連絡が遅かったこと、GWの連休に入ってしまったことなどの理由から少ない人数で実施しました。立木にロープをかけてブランコや、丸太を運んできて滑り台?を作りました。こんなモノでも充分に楽しく遊べました。お昼は山菜の天ぷら。春の七草やたけのこをとって食べました。
(小林 道正)