•  フットパス活動の記録

他のまちのフットパスをみてみよう あしかがフラワーパークと足利学校・鑁阿寺
2025.04.30
[講師:みどりのゆび 小林 道正]

満開の“大藤”を堪能しました



4月30日(水) 天気:晴 参加者:11名


あしかがフラワーパーク遠景(写真:小林)

 足利市は関東平野の北端、渡良瀬川の清流や緑豊かな山々に囲まれ、豊かな自然と歴史•文化が調和した街です。大藤で有名な「あしかがフラワーパーク」では四季折々の美しい花々が咲き誇り、日本最古の学校である「足利学校」や、室町幕府を開いた足利氏ゆかりの「鑁阿寺(ばんなじ)」など歴史的な史跡が数多く残っています。


JRあしかがフラワーパーク駅

 足利市へのアクセスは自家用車が便利ですが、駐車場周辺がたいへんな渋滞になります。シーズン中には直通列車が東京、新宿、八王子、神奈川などから運行されることもあります。今回は新宿駅を起点として、往路はJR湘南新宿ラインとJR両毛線を、復路は東武伊勢崎線とJR湘南新宿ラインを利用しました。


あしかがフラワーパーク・大藤棚


あしかがフラワーパーク・白藤

 房の長さは1.8mにもなるそうです。風に吹かれながら雅で甘い香りを漂わせていました。園内の歩道は身動きがとれないほどの混雑でしたが、色とりどりの藤の花に感動しました。


足利学校・外濠前

 JR両毛線を一駅乗り、足利学校へ移動しました。この足利学校は「日本国最古の学校」として足利市民の「心の拠り所」となっています。創建は諸説ありますが、確かな事実としては1439年に関東管領上杉憲実が再興したと伝えられています。16世紀半ばにはフランシスコ•ザビエルによって「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介されました。施設は孔子廟、学問所、書物(国宝)を保存する図書館などがあります。最近の話題はゲーム「刀剣乱舞」で有名になった「山姥切国広」という日本刀です。堀川国広が安土桃山時代にここ足利学校で鍛刀したと伝えられています。今年になって個人所蔵だったものを足利市が約3億円で購入しました。一般公開が楽しみです。


足利学校・孔子廟前

 次は足利学校から徒歩で5分の鑁阿寺(ばんなじ)です。足利尊氏の父貞氏が建立したと伝わります。鎌倉時代に足利氏の館として築かれた真言宗大日派の本山です。本尊は大日如来で、本堂は国宝に指定され、市民から「大日様」と呼ばれ親しまれています。


鑁阿寺・仁王門前


鑁阿寺・本堂(国宝)前

 最後に街の中心部を流れる渡良瀬川を渡って、東武伊勢崎線の足利市駅まで歩きました。老朽化した中橋を歩行者専用の橋として補強し保存するために、掛け替え工事をしています。森高千里の歌で有名な渡良瀬橋は川の上流方向にある隣の橋です。


渡良瀬川・中橋の架け替えの様子

(文:小林 道正写真:田邊 博仁)

“大藤”の美しさ、雄大さに感動



 新緑が目に眩しい4月30日、新宿の喧騒を後に、湘南新宿ラインに揺られること約2時間。多くの観光客と一緒に「あしかがフラワーパーク駅」に降り立つと、期待に胸が膨らみました。
 フラワーパークの門をくぐると、 すぐに目に飛び込んできたのは、息をのむほどに美しい大藤の姿。樹齢百六十年を超えるというその巨木は、頭上いっぱいに紫色の花房を広げ、まるで 壮麗な滝が流れ落ちるようでした。1本の木からこれほどの 美しさが生まれるのかと、自然の雄大さに感動しました。
 この奇跡は日本初の女性樹木医、塚本こなみ氏によってなされ、今こうして私たちの目を楽しませてくれているのです。
 藤棚の下を歩けば、 頭上には紫・白など、色とりどりの花房が揺れ、甘い香りに包まれます。藤の花以外にも色鮮やかなツツジが波のように咲き誇っていました。
 昼食後、歴史的な薫り漂う「足利学校」へと向かいました。いくつかの資料が展示され、日本の最初の学校がここに築かれたことを物語っています。特に心に残ったのは、当時の学生たちが真剣に学んでいた姿を想像した時でした。
 最後、私たちは国宝である「鑁阿寺」に向かいました。ここも歴史的な重みのある建築美で、足利の地の歴史の深さを強く感じました。


大藤棚


つつじと藤棚

(文と写真:太田 義博)
2025.04.30 10:53 | 固定リンク | フットパス
フットパス専門家講座 東国(アヅマのくに)フットパス(その2)
2025.04.25
[ 講師:古街道研究家 宮田 太郎 ]

奥相模の縄文大集落をフットパス

(縄文ロードと川尻遺跡編)
4月25日(金) 天気:晴 参加者:18名

テーマは、相模野の最奥部に位置する相模原市大島、川尻地区を「奥相模野」地域としてとらえ、そこに今も残る直線的な古街道が、実はおよそ数千年前の縄文時代に、多摩・町田と諏訪湖地方の高原地帯や八ヶ岳方面とを結びあった交流ルート=昨年黒曜石ロードだった?!――という壮大な歴史ロマンを胸に歩きました。
2千500年~6千年前の縄文時代に、長野県の高原地帯の山の民と、相模野・多摩丘陵・武蔵野の人々が、親戚のような交流を数千年も続けてきたなんて、現代ではなかなか想像できないことですが、このフットパスはそんなことを実感させてくれる小さな旅になったものと思います。
当日は暑さも予想されたため午後だけの開催とし、正午にJR橋本駅のミウィ前に集合。バスに乗って10数分ほどで下車した二本松の「八幡神社前」では、昭和40年の津久井湖ダム完成に先立って、昭和30年台後半にここへ移り住んだ約180世帯の集落(湖底に沈んだ荒川村などから神社や石仏をここに移した)であることを知りました。


八幡神社の石仏群
(写真:田邊)

その先は、旧津久井郡城山町と相模原市の境界線(古街道)に沿って段丘崖の森の中を下り、「古街道のゴールデンクロス」にあたるという地点を確認。


段丘崖の森の中を下る

その先では「津久井城跡」へと真っ直ぐに続く謎の古街道=縄文ロードをたどりました。


津久井城跡へ真っ直ぐに続く縄文ロード

オアシスのような大型スーパーで休憩後、「川尻中村遺跡」の跡地では、圧倒される量の出土物などを資料で確認。「新小倉橋」からの雄大な眺めを見たときは、相模川の川風が渡り、とても清清しい気持ちになりました。


長竹川尻線の上から、新小倉橋、城山と圏央道を見渡す



新小倉橋からの雄大な眺め相模川の小倉橋とリニア新幹線工事中の橋

橋を渡り対岸の「原東遺跡」を確認し、橋を戻って「川尻石器時代遺跡(国指定)」を探索。そこには石敷きの住居址が復元されており、また目前の「宝ヶ峰(津久井城跡)」の山頂には、冬至の太陽が沈むことも知りました。 これらの濃厚な縄文遺跡群は、まさに山脈を越えて黒曜石やヒスイ石を運んで来る八ヶ岳の縄文人たちが、往き帰りに休憩したり滞在していたベースキャンプではなかったかと想像させてくれます。


川尻石器時代遺跡の復元された石敷き住居址を観察

普段はあまり訪ねることもなく、観光地でもないこのエリアですが、まだまだ自然が豊富であり、遠い我々の祖先の逞しき暮らしが見えてくるようで、貴重な時間になったと思います。
( 文と写真:宮田 太郎)


新小倉橋より相模川の上流、神奈川県最古(昭和18年)の津久井発電所(写真:田邊)


国指定史跡川尻石器時代跡(写真:田邊)


川尻石器時代遺跡に参加者のみなさまと(写真:田邊)

アズマのくにフットパスに参加して


 土日が詰まっている私達にとってウイークデー開催のこの FP は願ってもなく、おかげで久しぶりに参加できました。それに数年前まで歩くのは体力維持が目的でしたが、最近は加えて歴史等の見聞が得られる行事に魅力を感じており、今回はまさにそういう企画でした。
 川尻や小倉橋周辺は、以前、ゴルフや、宮ケ瀬ダムおよび丹沢の裏山などへ遊びに行くときに頻繁に通った所ですが、そこにこれほど大規模な遺跡群があることはまったく知りませんでした。
 新小倉橋が開通した2004年以前は、相模川の向こう側へ行く場合、車は狭い(旧)小倉橋を対向車両がないことを確認して通行する、つまり交互通行のため時間がかかり、ここを通らなければ5~6㎞下流の高田橋まで迂回するしかなく、すごく不便な所だと感じていました。
 その場所が、縄文時代には既に大集落があって多くの人が住んでいただろうこと、その後も黒曜石の運搬経路であった時代もあり、さらに相模の国や武蔵の国などと甲州方面を結ぶ主要な交通路の一つであっただろうこと等を知りました。黒曜石と聞き最初は何故かと思いましたが、刃物道具として使われた時代には重要な交易物だったのでしょうね。
 現代のような通信手段・動力・機械等がなかった時代の人々は、どんな生活をしていたのだろうか?…住居や渡河手段等をどのようにして整備したのだろうか?…いろいろ想像するだけでロマンを感じます。
 途中休憩した場所が、その遺跡群のある近くで、スーパーアルプスなどの店が入っているコピオ相模原インター店というモールでした。そのモールに立ち寄ったのも私達にとっては初めてでした。
宮田先生の詳細な資料と、広く深くとてもわかりやすいご説明で、大変面白く勉強になった一日でした。
(文:伊藤 英俊、民江)
2025.04.25 10:02 | 固定リンク | フットパス
鶴川フットパス 鶴川(能ケ谷)の四つの古民家を巡る
2025.01.26
[ 講師:浅黄 美彦 神谷 由紀子 田邊 博仁 ]

鶴川の土地や開発の歴史を顧みながら四つの古民家を巡ります

1月26日(日) 天気:晴 参加者:31名

 小野路宿がフットパス発祥の地とするならば、千都の杜のあるかつての能ケ谷の森は、そのきっかけとなった場所でもあります。
 鶴川駅周辺は空も大きく、なんだかのどかな雰囲気が漂うのは、かつて多摩丘陵の自然の中に集落が点在する豊かな場所であった由縁でしょうか。そんな集落のひとつが能ケ谷で、今でもその面影が随所に残っています。最初に訪ねる駅前の「鶴川香山園(つるかわかごやまえん)」は、池泉回遊式庭園と書院造りの建物(瑞香殿)がある名家の邸跡で、昨日開園したばかりの都市公園です。ここを起点としてみなさんにお見せしたい鶴川駅周辺のフットパスコースがいくつもできそうな予感がします。


鶴川香山園・瑞香殿をバックに参加者と(写真:田邊)


開園した池泉回遊式庭園と瑞香殿(1906建立)(写真:田邊)

 津久井道を東へ少し歩き、鈴木工務店の当主が代々受け継いできた築150年の茅葺古民家「可喜庵」へ。江戸末期に造られた古民家の内部で、住まいの模型展示や古本市を眺めた後、建築家でもある現当主の鈴木さんから、古民家ながら快適な暮らしの研究の場にもなっていることや、茅葺屋根の葺き替えのこと、先に見た香山園の瑞香
殿の棟梁は先々代当主であることなど、興味深い話をお聴きすることができました。


可喜庵古民家と当主からの説明風景

 江戸の道であり谷道になっている津久井道から妙行寺の境内を上り、多摩丘陵のエッジからの眺望を楽しむ。はるか三輪の大木の樹形がくっきりと見えました。
 丘の上は、かつての能ケ谷の森を開発した大規模住宅分譲地「千都の杜」。隣接する平和台に住む神谷さんより、開発前の能ケ谷の原風景のことや開発の経緯、反対運動のことなどを話していただきました。開発を止めることはできませんでしたが、所有者、周辺の方々、開発者などが歩み寄り、折り合いをつけながら今の千都の杜があるようで、緑道のネットワーク、尾根沿いの緑地の配置、擁壁を緑で隠す、高い緑被率などの配慮に繋がっていったようにも感じられます。


千都の杜住宅地

 住宅地の緑道を進むと、能ケ谷神社に繋がっています。「能ケ谷神社」は、真光寺川の東側の丘の上、住宅地の一画にある小さな神社という佇まい。かつては能ケ谷村の鎮守としてランドマークだったのでしょう。神社は区画整理地事業地内に組み込まれ、開発完成当初は禿山となっていたのが20数年を経て、立派な神社の森となっています。戦前、白洲次郎・正子夫妻は能ケ谷に居を構えますが、近くに東照宮(合祀され大正期に能ケ谷神社となる)があることと、造詣の深い「能」の字を冠した地名に縁を感じたからだと、白洲正子の『鶴川日記』に書いていました。
 屋根の葺き替えのこと、先に見た香山園の瑞香殿の棟梁は先々代当主であることなど、興味深い話をお聴きすることができました。

 神社から平和台の住宅地を抜けると三番目の目的地「みんなの古民家」となります。
 みんなの古民家のオーナー石川さんから、江戸末期に造られた古民家のこと、今もカマドで火が炊かれていること、1977年まで暮らしていた母屋を2014年からレンタルスペースとし、シェアキッチン、マルシェなどを開催。古民家を開放していく、まさに「みんなの古民家」利活用のお話を聴くことができました。保存でも移築でも解体でもなく、その場でありのままに古民家をたくましく利活用する優れた事例と感じました。


「みんなの古民家」で石川さんのお話を聞く(写真:田邊)

 昼食はみんなの古民家周辺のいくつかの飲食店に分散してとり、最後の「武相荘」へ。
 白洲次郎・正子夫妻が1943年に転居してきた藁葺屋根の古民家は見事にリノベーションされ、英国のカントリーハウスといった趣も感じられます。現在の旧白洲邸「武相荘」は記念館・資料館として一般公開されています。この日はちょうど骨董市が開催されており、敷地内は入場無料で入ることができました。
 武相荘の骨董市を眺めて、四つの古民家を巡るフットパスを終了しました。
(文と写真:浅黄 善彦)


武相荘

「鶴川の四つの古民家を巡るフットパス」に参加して

 町田市鶴川駅近くに、地域の文化的財産を再生した市立公園「鶴川香山園(つるかわかごやまえん)」が1月25日に開園した。それを近隣の古民家が祝う「鶴川OMOTENASHI祭り2025」イベントがあり、NPO法人みどりのゆびもフットパス・里山歩きツアーを企画し、浅黄さんに教えていただき参加した。理事長の高見沢邦郎先生に久しぶりにお会いできた。
 出発点は、神蔵家の灸治所として親しまれていたという香山園。瑞香殿が、レストランとして整備されている。1906年に鈴木工務店の先々代が建築した端正な表情の建物である。
 次の「可喜庵」は鈴木工務店の茅葺建物である。江戸時代末頃に隠居用の建物として建築されたとご当主からお聞きした。15年前に行われた茅葺の葺き替え時には、市民の方々も作業に参加したという。色々な集まりが企画されて、気持ちよいスペースをつくっている。工務店事務所の建物も色彩や材料の使い方が粋で、素敵な建物だ。
 蓮の絵で知られる「妙行寺」の裏手を登って、大規模住宅開発地の「千都の杜」へ。かつては能ヶ谷の森として親しまれた緑地で、開発反対運動を経て、緑の多い質の高い住環境を形成している。
 三つ目の「みんなの古民家」は石川家のかつての母屋で、今も囲炉裏など、時々は火が使われている。離れは民泊に使われ、ジンバブエなど海外からの宿泊者との交流が持続的になされている。
 また、撮影スポットとしても有名。農の営みを大切にして、近くにある有名な里地の寺家町で古代米を栽培したり、野菜を敷地内で栽培している。最後は、有名な「武相荘」。骨董市が開かれていた。流石に茅葺屋根は凛として風格がある。
 スタンプラリーで4つの古民家を訪れて、出発点の香山園に戻り、くじ引きができた。中には3等を引き当てた方もいて、幸先の良い年明けのイベントでした。
(文:若林 祥文)



スタンプラリー3等賞を祝福(写真:田邊)

2025.01.26 22:10 | 固定リンク | フットパス
他のまちのフットパスをみてみよう 高尾山「ダイヤモンド富士」と自然とのふれあい
2024.12.20
[ 講師: 小林 道正 ]

年1回だけのダイヤモンド富士と、ムササビとの遭遇を期待して



12月20日(金) 天気:曇り 参加者:9名

 高尾山からの富士山の眺めは格別です。夕日が富士山の山頂に沈むのはもっと格別です。しかし今年は残念ながら雲に覆われて見ることはできませんでした。


2024年12月20日15時10分


2024年12月22日16時16分

 高尾山から見る富士山に夕日が沈むのは冬至の日(12月21日)と前後1日の数日間だけです。下記の資料は東京の「日入の位置」と「日出と日入の時刻」です。日入の太陽の位置が高尾山から見て最も南寄りのところに富士山があります。そして冬至の日に最も昼が短くなりますが、日出が最も遅い日と日入の最も早い日は冬至ではなくズレているのが不思議ですね。




高尾山山頂で記念写真

 「ダイヤモンド富士」は残念ながら見ることができませんでしたが、それでも今回のフットパスが満足いっぱい感激いっぱいになれたのはムササビの飛翔が見られたからです。巣穴の下で待ち受ける私たちの頭の上を、そして目の前を飛んで森に消えて行きました。さらに、その映像を記録できたことで何度も感動を振り返ることができました。


ムササビが頭の上を飛んだ!

 高尾山にはたくさんのムササビが住み着いています。それはムササビが食事をした痕や糞を見つけられることや、多くの巣穴があることから確認できます。
 高尾山には1300年の歴史のある薬王院があります。修験道の道場として神聖な山が守られ、時の権力者からも篤く保護されてきました。そのおかげで多種多様な自然が残っています。

 冬の季節の人気は「シモバシラ」です。地面から氷の柱が成長する霜柱ではなく、シモバシラという植物の茎に氷の華ができるのです。


「氷の華」といわれるシモバシラ

 12月になっても、真っ赤に紅葉したメグスリノキの葉が残っていました。モミジやカエデの仲間です。プロペラのような種子を見れば分かりますが、その大きさにビックリします。


メグスリノキの葉


一番上がメグスリノキ、一番下
がイロハモミジの種子もありました

 キジョランの実と種子もありました。ウリのような実が縦に割れて白い綿毛の種子が風になびいています。この白い綿毛が鬼の老婆が髪を振り乱している様子を連想させて鬼女蘭と命名されました。
 キジョランにはもう一つの魅力的な話題があります。この葉っぱを食草としているアサギマダラは、数百kmもの渡りをするといわれています。秋に卵から孵った幼虫はキジョランの葉っぱを食べながら冬を越します。これだけでも驚きですね。幼虫の葉っぱの食べ方に特徴があります。キジョランの葉っぱには毒があるからです。初めに円を描くように噛んで筋を付けます。すると円の内側の毒が白く染み出てきます。そうしてから内側の葉っぱを食べるのだそうです。




キジョランの実と綿毛のついた種子


アサギマダラの幼虫とキジョランの葉っぱ

 高尾山内には、四国八十八カ所の札所の土と一緒にお大師像が建立されています。今回は約半分の三十五カ所をお参りしました。次回は是非「八十八大師巡拝結願」していただきと思います。


弘法大師が祀られている四天王門(写真:田邊)
(文と写真:小林 道正)

「高尾山からダイヤモンド富士を見る」に参加して



 前日は初雪がちらつく寒い天気でしたが、当日はそこまで寒さを感じませんでした。今回のフットパスの見どころは、高尾山の多様な自然体系としての植物、頂上から見る雄大な景色としての富士山、そして珍しいムササビの生態です。
 山頂へ向かう途中、高尾山の多様な植物について小林先生に解説してもらいましたが、ハイライトのダイヤモンド富士は雲に邪魔され今回は不発に終わりました。ただ、ムササビの飛翔する姿が見られて感激しました。
 高尾山にムササビが生息していることは知っていましたが、夜行性でもあり、実際に飛翔する姿を、それも眼前を通ること一瞬でしたが、自分にぶつかるのではないかと思うほどに遭遇することができました。もともと里山の人家周辺にも棲んでいる身近な動物で、巣穴から出て採食を始めるのは日没の30分後と決まっているということです。高尾山には巣穴を作る大きな樹木と餌になる樹種も多く、さらに滑走ができる高い木も多く植生している環境がお気に入りのようです。今回の観察場所は建物の軒下という少し特別な場所でしたが、他にもムササビの巣穴を教えていただきました。これからもムササビが観察できる高尾の山の自然環境を残していく事ができれば良いと実感いたしました。
 ケーブルの頂上駅で購入した「天狗焼」は家族で好評でした。黒豆の入った味も素晴らしく、最高のお土産となりました。
(文:太田 義博)
2024.12.20 17:07 | 固定リンク | フットパス
他のまちのフットパスをみてみよう 八王子「いちょう祭り」を歩きメタセコイア化石と琥珀を探す
2024.11.17
[講師:小林道正]

甲州街道のイチョウ並木を歩いて浅川の河川敷に出ると



11月17日(土) 天気:晴 参加者:11名

 多摩御陵造設の記念樹として770本のイチョウの木が宮内庁から八王子市に贈呈され、甲州街道に植樹されました。お祭りは毎年11月に「いちょう祭り」と命名され開催しています。


「いちょう祭り」には多くの露店が建ち並ぶ(右端:道標)

 ここ追分町は、甲州街道と陣馬街道の分岐点があることから名付けられました。江戸時代に足袋屋清八という商人が、ここに道標を立てました。追分町には「八王子千人同心」の碑があります


甲州街道のイチョウ並木(2023年秋)

 八王子同心とは、八王子地域の治安維持を主な目的として、武田氏の家臣だった千人頭と配下の同心が家康に召し抱えられ、1000人の同心が任命されました。千人頭1名に100名の同心がつく構成でした。幕府の体制が整い世の中が安定すると、

 千人同心に命じられた重要な役目は、家康が祀られた東照宮の「日光火の番」で幕末まで続きました。
 追分の分岐点から八王子市役所まで陣馬街道を進み、本日楽しみにしていたレストラン「六文銭」まで歩きます。


日替わリランチ「栗ご飯とハンバークといろいろ」1,100円


レストラン「六文銭」の前で記念写真(写真:田邊)

 イチョウとメタセコイアは中生代のころに栄えていましたが、現在は絶滅したと考えられていました。しかしどちらも中国に生き残っていたことから「生きている化石」と言われています。




「八王子千人同心」の碑と西八王子駅前のメタセコイア

 メタセコイアの化石は、八王子市役所の北を流れる浅川の河川敷にあり、八王子市の天然記念物に指定されています。


メタセコイアの巨木の化石


年輪が確認できる


琥珀の欠片も見つかる

 この河川敷にはメタセコイアの巨木の化石がたくさんあります。そして、周辺からゾウの歯や牙も発見されました。230万年前の八王子はメタセコイアの林の中をゾウの群が歩き回っていたのかも知れません。
 今回のように八王子の街をイチョウとメタセコイアを関係づけながら歩いてみると、今までと違った発見があるものです。
(文と写真:小林 道正)


浅川河川敷周辺(写真:森)

メタセコイアの化石林で



 晩秋とは思えないよく晴れて暑いぐらいの朝、JR西八王子駅に集合。駅前のメタセコイアの木の前からスタートしました。メタセコイアは黄葉する針葉樹で円錐型の大木。その下で、今日のテーマの一つである「メタセコイアの化石林」に関して小林先生から学術研究の歴史の解説がありました。
 すぐ近くの甲州街道沿いを歩きます。有名なイチョウ並木はまだ緑のものが多いですが、ちょうど「いちょう祭り」が開かれていました。沿道には様々な工夫を凝らした出店があり、地元の方の地域愛が感じられました。この付近は地名を「千人町」といい、徳川家が甲州方面からの防衛のために武田家の遺臣を置いた「八王子千人同心」の名残です。市役所近くのレストランで昼食。美味で気持ちの良いところでした。
 市役所の横を流れる浅川の河原が今回の目的地です。白っぽい地層がむき出しになっており、一部に黒いものが見えます。メタセコイアの巨木の根元がそのまま化石になったものです。年輪がくっきりと見えますが、炭化して真っ黒で、触ると硬く感じます。ここでは230万年前のゾウの化石も見つかっていて、それが歩き回る大森林だったそうです。
 化石の表面はバラバラに砕けており、カケラが拾えます。琥珀(こはく)は太古の松ヤニの化石ですが、そこまで至っていないものをコパールといいます。先生に見せてもらって頑張って探しましたが、私はダメでした。代わりに見つけたのがネナシカズラ。葉緑素を持たず根も葉もない黄色いつる性の寄生植物で、10月の横浜自然観察の森で見つからなかったのがここで出合いました。


ネナシカズラ

(文と写真:森 正隆)
2024.11.17 16:40 | 固定リンク | フットパス