•  フットパス活動の記録

他のまちのフットパスをみてみよう麻布十番はどんなまち?
2023.07.09
[ 講師:みどりのゆび神谷 由紀子 ]
謎の多い麻布十番から白金台地を深掘りすると

7月9日(日) 天気:曇参加者:12名

前回は麻布十番から六本木など、港区の北側の麻布台地を巡りました。今回は麻布十番から四ノ橋経由で南側の白金台地を歩きました。白金というとセレブの邸宅のあるリッチな地域というイメージがありましたが、行ってみるとむしろ町人を中心とした下町が主体となった、落ち着いたまちでした。もともと麻布地域は南斜面の丘陵地で、白金は主に共有地でした。四代家綱、五代綱吉の時代に江戸城から半径3~4kmにある、麻布、白金の郊外に大名の下屋敷などが置かれ商人町もできました。景観や古川という水運にも恵まれ、昔から自然も人間の生活も豊かだったのでしょう。それが現在も高級な地域のイメージの割にはどことなく丁寧で暖かな人情があって、好感をもたれる理由ではないかと思えます。

今回のコースは仙台坂上から四ノ橋に南下します。かなり面白いのでお勧めです(暑くなければ)。
麻布十番駅→商店街→暗闇坂→阿部 美樹志邸→氷川神社一安藤教会→一本松→仙台坂上→薬園坂→釣堀坂→本村町貝塚→四ノ橋→白金商店街→三光坂→服部ハウス(服部金太郎邸)→聖心女子学園→雷神神社→白金北里商店街(昼食)→明治坂→医科研→港区郷土歴史館→悪水溜→国立科学博物館附属自然教育園→都立庭園美術館→白金台又はJR目黒駅
■麻布の発展は綱吉の「白金御殿」に始まった
「四乃橋」の北側、ちょうどいまのイラン大使館のあたりに江戸幕府の薬草園がありました。綱吉は眺めのよいここが気に入り、「白金御殿」を建築しました。これによって麻布の商店街や古川周辺の開発が進んだのです。薬草園は小石川に移転しました。
■太古は海岸だった(地形図参照):「釣堀坂」、「本村町貝塚」
釣堀坂を下った辺りが入り江で、そこから貝塚のある「本村町住宅2号館」の裏の崖が太古には海岸線であり、この海岸線を降りる坂が「薬園坂」で、浜辺の古川に接するところが「四ノ橋」なのです。
後ろの高台には綱吉の白金御殿、目の前には白金の草原が広がっていました。「四之橋」は江戸時代にピクニックの名所で、浮世絵にも描かれています。日本橋からの距離は約7㎞、徒歩だと約90分。橋の南には茶店や料亭が広がりました。
これが今の白金商店街の始まりです。




麻布十番白金地形図



歌川広重『名所江戸百景 広尾ふる川』(四ノ橋)
1856年(安政3年)

■大名屋敷から芸術的建築物へ:「聖心女子学園」、「東大医科学研究所」
丘陵地であるので山手には大名の下屋敷が多くありましたが、明治以後学校などになりました。聖心女子学園が明治41年に建設されました。正門は建築家ヤン・レツルの設計で、初等科の美しい校舎はアントニン・レイモンドです。



聖心女子学園正門前でみなさまと(写真:田邊)

「東大医科学研究所」は、明治25年に北里柴三郎が設立した「伝染病研究所」が明治39年に現在の場所に移転され、その後東京帝国大学付属になりました。安田講堂と同じ内田祥三の設計で造られたゴシック風の重厚な建物で、隣接する「旧国立公衆衛生院(現在は港区立郷土歴史館)」と共に保全されています。





「東大医科学研究所」正門と「旧国立公衆衛生院」(写真:田邊)

■水源池の跡:「聖心女子学園」・「東大医科研」・「悪水溜」
「東大医科学研究所」の木々の生い茂る窪地にかつて川の水源の池があり、ここから聖心女子学園を通って支流が古川に流れ込んでいました。医科研の西側には医科研によってせき止められた窪みができ、明治時代「悪水溜」と称され付近の下水を地下に浸透させていたそう。今回のウォークで、皆で煉瓦の擁壁がかなり長い範囲で残っているのを見つけたのは大収穫でした!


「白金台の悪水溜」の赤煉瓦の擁壁(写真:田邊)

■白金という地名
現在の「自然教育園」と「東京都庭園美術館」の広大な敷地には、室町時代に「白金長者」の館があったといわれ、その土塁跡が今も残っています。江戸時代には大名下屋敷に、明治時代には陸海軍の火薬庫に、そして大正時代には皇室の御料地となりました。
(文と資料:神谷 由紀子)



安藤教会(写真:横山)



「白金台の悪水溜」と現代のイメージの落差を楽しむ

麻布十番から白金へと今日のコースの概要を聞いたとき、地域の歴史や由緒もきっと華やかなフットパスになると思った。ま、ちょっと古いが「シロガネーゼ」という流行り言葉があったように、グルメやファッションそしてカフェや洋菓子を求めて、あの寅さん風にいえば「粋な姉ちゃんがチャラチャラ歩いてる」そんな街がイメージされた。
「薬園坂」を古川傍に下りるとその南側一帯は、印刷所や町工場が多いところだとの説明を受けた。後日港区のHPを覗いてみたら「白金、誇りの町工場」と自衛隊用の特殊なラッパを造っている工場の写真が載っていたので、このあたりは昔ながらの白金の記憶を残す下町感あふれる場所なんだと、そのイメージの落差が楽しめた。
目黒通りから北西に入ると結構な坂が下っていて、向こう側の高台を目にすることができる。底は悪水溜。スリバチ学会の皆川さんは言う、「この先に谷があるから、下りてまた上る坂になっている。Ⅴ字型の谷ではなくて、スプーンで掬ったようなスリバチ状の谷が東京にはたくさんあるのです」。ここ悪水溜は白金台にある、四方向とも閉じられた一級のスリバチ地形とのこと。「東京23区凸凹地図」には、「旧悪水溜」溜池の名残として煉瓦造の擁壁が残されている。貴重な一級スリバチ地形、と記されている。
「白金台の悪水溜」とつぶやいてみると、それは京極夏彦の妖怪話か、周五郎や周平の哀感あふれる時代世話物か、正太郎の梅安か犯科帳か、何か白金のイメージとは全く違う物語が紡ぎ出されるような思いにとらわれる。(文:岩崎 英邦)



「東京都庭園美術館」にて、お疲れさまでした!(写真:田邊)

2023.07.09 11:52 | 固定リンク | フットパス
フットパス専門家講座
2023.06.25
古代の史跡を訪ね、国分寺崖線の水と緑を楽しむ

[ 講師:髙見澤 邦郞 ]

梅雨の合間の青空に、
僧尼寺&国府の跡をむすんだ一日


6月25日 (日)天気:晴参加者:19名


 集合地の西国分寺駅南口一帯は戦時中に国策で、東芝など工場勤務者用の木造長屋建て<営団住宅>が建てられ、戦後も住まわれていました。老朽化の中で30年ほど前に、交通広場や集合住宅群として再開発の実施へ。また府中街道を隔て、その東側には広大な敷地の<鉄道学園>がありましたが、国鉄の民営化に伴って東京都等に売却され、住宅団地や都立多摩図書館、国分寺市役所(建設中)などに変貌。私(高見澤)もその頃、市のマスタープラン作成を手伝っていたので思い出のある場所です。といったことを駅前で説明後、鉄道学園跡地の大半を占める「都立武蔵国分寺公園」へ。公園の整備中に発掘されたのが8世紀頃につくられた<東山道武蔵路跡>。東山道は近江から陸奥まで800キロほどにわたる官道で、関東では今の群馬・栃木のあたりを東西に通っていました。その足利あたりから武蔵国の国府を目指して80キロほど、南に向かって一直線に12メートルの幅で設けられたのが「武蔵路」。我々も、保存された路の跡を歩いてみました。


鉄道学園時代の桜が武蔵路の中央に
それにしても幅12メートルは広い


発掘時の展示施設の前で一枚

 広大な公園の南側は国分寺崖線に続き、その小径を下ると湧き水の溢れる「真姿の池」や「お鷹の路」に。日曜日なので家族連れで賑わっていました。


自然の中の小径


豊かな湧水

 代々国分寺村の名主だった本多家の敷地と建物が昭和の時代に市に寄付されています。敷地内に整備された<武蔵国分寺跡資料館>を見学。古代のこの一帯の模型や出土した瓦など多くの展示がありました。そのすぐ西にある現在の「国分寺」は江戸時代の建立とされていて、立派な楼門・仁王門・薬師堂などがあります。


旧本多家長屋門の前で記念撮影

 次いで「史跡武蔵国分寺跡・国分寺尼寺跡」へ。この両寺は天平の頃(8世紀なかば)、聖武天皇の詔で建立された全国60ヶ所とされるもののうちの一つです。その後鎌倉時代後期に、新田義貞による分倍河原の戦いに巻き込まれ焼失、以後再建はならなかったとされています。当時の礎石などは以前からよく知られていましたが、近年、調査研究や公園的な整備が進み、見学ができるようになりました。


のびやかな武蔵国分寺・尼寺跡。両寺の間は府中に至る
12メートル幅の<武蔵路>で隔てられていた

 さて尼寺跡から府中街道へ戻り、バスに乗車して10分少々で府中駅に到着。京王線と南北に交差するのが<馬場大門の欅並木>です。徳川家康が馬駆けの二条の道(馬場)とケヤキの並木を大國霊神社に寄進したのが始まりとされています。大正13年に国の天然記念物に指定されましたが、往事には60本以上あった幹周り3メートル以上の古木も、近年のビル化や車の増加で枯れるものも増え、その維持保全に市とボランティア団体が奮闘しているようです。さてここで1時間後に再集合ということにし、ランチタイム。


強い日差しをケヤキの並木が遮ってくれて
一休みする人たちも・・・

 午後は最後の見学。くらやみ祭りで有名な大國霊神社に参拝。そして、発掘調査で分かってきた武蔵国の国衙(こくが/東京都庁のようなもの)と国司館(こくしのやかた/10年程前に廃止された旧東京都知事公館のようなもの)の様子を展示する施設を見て日程を終了。


武蔵国の国衙と国司館の様子を勉強しました

 南武線・武蔵野線の府中本町駅で2時半に解散しました。
 暑い中の約8キロメートル、初めての方も含め多くの皆さんに参加していただきありがとうございました。
(文:髙見澤 邦郞写真:田邊 博仁)

1300年前の遺跡と今日の出来事


 「東山道武蔵路跡」を経由し「国分寺・国分尼寺跡」を見学。その後府中に移動し、「史跡大國魂神社・武蔵国府跡」など約1300年前の史跡に触れる半日でした。いずれも規模が大きく朝廷の意気込みと、当時いかに疫病や天候不順による農作物の不作などに悩まされていたかが感じられました。よくこれらが今も残っているなと感心しました。又公園もよく整備されていてさすが都立。このまま残ってほしいものです。


 ランチタイムにびっくりなことに遭遇。一緒に参加した伊藤さんと昼食にと行ったカレー屋さんの券売機でのこと。一人の大柄な外国人の先客。よく見るとなんとラグビー日本代表キャプテンだった(今もかもしれませんが)リーチマイケルその人だったのです。ここで関西人のおばちゃんなら“マイケル元気”などと話しかけるのかもしれませんが、関東に住んでいるものとしては遠慮して声もかけられず、もちろん写真を一緒に撮るなんて勇気も出ずに無言で待っていると、先にどうぞとばかりに譲ってくれました。その後携帯で連絡を取っていたので家族から持ち帰りを頼まれていたようです。ちなみにマイケルは東芝府中の所属(今はどうか?)なので、この辺りで遭っても何の不思議もありません。私も伊藤さんも身長は180cm近く(今は年齢と共に低くなっていますが)。けっして低い方ではないのですが、さすがにマイケルがでかい。胸板の厚みはすごいの一言。勇気を出していればここに一緒に撮った写真を掲載できるのに。皆さん、こういう時には勇気を出しましょう。
 ところで先を譲ってもらった券売機でカレー券を買ったら、それがなんと弁当券になっていました。私はそれを押した記憶は全くないので、多分マイケルが押していたのが残っていたのではないかと思います。
 もちろん店員に話して店内で食べました。弁当なのでウエットティッシュ付。この件で伊藤さんとの会話も弾み、実に楽しいランチとなりました。
(文;鈴木 弘)
2023.06.25 22:41 | 固定リンク | フットパス
フットパス専門家講座
2023.05.20
佃島、月島そして晴海へ/江戸のまち、
明治・大正・昭和初期のまちの変遷をめぐる


[ 講師:浅黄 美彦 ]

江戸のまち佃島、明治・大正の埋立て
地のまち月島、そして昭和の埋立て地
晴海。それぞれのまちの変遷をたどり、
路地・親水堤防・運河沿いを歩きます。


5月20日(土)天気:晴参加者:15名

 
 地下鉄「月島」駅7番出口を出て、西仲通りの東端にある「月島もんじゃ会館」前の広場に集合。まずは、かつての佃川のあった高架下を渡り佃島へ。
 佃島は隅田川河口にあった鉄砲洲の干潟に、百間四方の土地を拝領して造った江戸の漁師町です。
その歴史的なエリアに入る前に、あえて旧市街の外周にある「ライオンズマンション月島タワー」から見ることにしました。この開発では、周辺の路地に合わせて路地状空地を巧みに設けているのが特徴です。新たに造られた路地を抜け、「佃天台地蔵尊」の路地に入ると、その狭さに驚きます。

 
開発によって生まれた路地  佃天台地蔵尊の路地

 ここが典型的な佃島の路地でもあります。
 佃天台地蔵尊の狭い路地を抜けると「波除稲荷神社」、その先には船溜まりがあります。佃天台地蔵尊から旧佃の渡しあたりまでが江戸のまち佃島です。「佃公園」の西端から「佃小橋」、「大川端リバーシティ」を望むビューポイントで早速記念撮影。


佃公園の西端から記念撮

 古い佃島のゲートのような佃小橋へ。赤い欄干を入れて、船溜まり、「釣舟屋沖本」、「住吉神社」とタワーマンションの眺めも佃島を代表する都市風景となっています。
 佃小橋を渡り、佃の渡し方向に少し歩き横道に入ると、佃島の漁師住宅「飯田家住宅」と「佃政」がある。飯田家住宅は大正9年築(関東大震災前)で、漁師の専用住宅町家の構えをよく残す住宅で、400年前の地割と風景を伝える貴重な場所でもあります。
 飯田家住宅横の狭い路地を抜け隅田川の堤防沿いに出ると、佃煮の香りが漂う。「天安」に立ち寄る。
 

飯田家住宅  佃煮屋 天安

 佃島の締めくくりは「住吉神社」。社殿は1870年に再建されたもの。奥の明治末に建築された煉瓦倉庫も見どころのひとつです。今回は二の鳥居の陶製の額をじっくりと眺めました。額の文字は有栖川宮のもの。麻布のフットパスで訪ねた「有栖川宮記念公園」と繋がります。


住吉神社二の鳥居

 「住吉小橋」を渡り旧石川島へ。江戸の人足寄せ場から明治の監獄を経て石川島播磨造船所となる。工場の閉鎖後1979年に三井不動産と旧日本住宅公団が取得し、都心への人口回帰、ウォーターフロント開発、タワーマンションの先駆となる大川端リバーシティ21開発が1986年に着工する。
 1990年代の初めには古き佃島から石川島のポストモダンの超高層が出現し、新たな都市風景が生まれました。
 隅田川テラスを歩き「相生橋」を横に見て清澄通り沿いの肉の「高砂」へ。まち歩きの楽しみ、コロッケの食べ歩きで小腹を満たす。清澄通りを渡ると新佃島。1896年に埋立てられた新佃島は、当初は別荘地で文学者らが集まった割烹旅館「海水館」があった場所として知られています。平らな佃島、月島のなかで唯一小高くなっているのが新佃島の特徴です。


海水館跡

 そろそろ昼時となり、月島の路地をいくつか見ながらもんじゃ焼きの店へ。月島はタワーマンションともんじゃの店ばかりと憂いつつも、たっぷりと歩いたあとのビールともんじゃ焼きはやはり旨い。


もんじゃ焼き店の前で記念撮影

 昼食後は、月島の西仲通りを勝どき方面に歩き、看板建築や長屋と路地を飲み込んだタワーマンションの足元を進み「西仲橋」にたどり着く。土木デザイン賞を受賞したこの橋から、サクラの咲く頃は、月島川の春の花筏が美しいらしい。
 最後は朝潮運河に架かる「黎明橋」を渡り「晴海トリトンスクエア」へ。晴海高層アパートのあった旧日本住宅公団の団地跡地開発地です。運河沿いのトリトンスクエアのガーデンで解散しました。
(文:浅黄 美彦写真:浅黄・田邊)

運河や橋、町の歴史を歩いてもんじゃまで



「みどのゆび」への入会から、待ちに待って3年目にようやく参加することが叶いました。
 参加申し込みの際には事務局の神谷様からも、お久しぶりです!とお声掛けいただいてとても嬉しく思いました。それなのに、当日まさかの集合時間を間違え30分遅刻。ガイドの浅黄様が事前配信くださっていた歩くコースのご案内メールを頼りに、小雨上がりの中、追いかけました。残念ながら、「飯田家旧住宅」はスキップしましたが、佃煮屋さんで無事奇跡?の合流。墨田川沿いの緑地公園を歩いたり、佃島の氏神様、大阪から徳川家康公の御恩により移住された佃島の縁起など、何かの読み物で、私がちょっと見ていたものを深く知ることができました。
 また私は3歳頃からでしょうか、初めて自宅を持った父の庭で花木を育てるための手元用スコップを手に持った記憶があり、それ以来、植物が大好きです。今日はタイサンボクを始めろいろなお花を見、また名前や出自まで教えていただけて、とても有意義な一日となりました。
 途中、伊東豊雄氏の「風の卵」を通り見ながら、コロッケを頬張ったり、趣味の合うお仲間とお話ししながらのそぞろ歩きの楽しいこと。みなさんお優しくて。いつか会の拠点である小野路の活動にも参加したいです。まずは竹林の管理、来春こそはタケノコ!!!の御相伴にあずかりたいものです(笑)。



 話がそれました。佃島の「もんじゃストリート」はコロナ禍明けで満員御礼といった感じ。運良く皆さんで入れることができ、ツナとコーンが口の中でプチプチ弾けるもんじゃを楽しみ、町おこしで始まったもんじゃストリートが、もんじゃといえば佃島を短い年月で不動のものとしたことなどに感嘆いたしました。お店を出たら目前の大きなタワーマンションにびっくり。そんなこの界隈のパワーが人を魅了する魅力なのかしら。
 その後晴海に向かう道中、運河と川、町のつながりを知り、中銀マンションの中庭の小さな滝(人工)で涼み、「晴海トリトンスクエア」のガーデンを散策して帰路につきました。多くの花と歴史を垣間見られて、お江戸散歩楽しかったです。
 わたしは新潟県の真ん中あたりが出身で、自然を生かした公園以外はない? 特に歴史的な事というと「耳取遺跡」という縄文のほんとうに小さな歴史しかないのかな、そんな街で育ちました。
 フットパスを作るにはいろいろ工夫が必要そうですが、いつか自分で一つでも良いからコースを作りたいと思っています。この会を通じて学ばせていただきたいと思っています。今後ともどうか、どうぞよろしくお願い申し上げます。
(文:鈴木 いと子写真:田邊)
2023.05.20 14:29 | 固定リンク | フットパス
他のまちのフットパスをみてみよう 春の海風を感じながらの「鵜原理想郷」
2023.04.22
[ 講師:小林 道正 ]

リアス式海岸が続く千葉勝浦の景勝地 大正ロマン散策


4月22日(土) 天気:曇参加者:6名


 このコースの楽しみは、リアス式海岸の景色を満喫できる「鵜原理想郷」の散策と、市場食堂の海鮮丼を味わうことでしょう。

<鵜原理想郷とは>
 「鵜原理想郷」は、大正時代に別荘地として開発する時に名付けられた海岸台地のことです。分譲に先立って、見晴らしの良い現地で、政治家や実業家の他に、新橋や赤坂から芸者衆を数十人も集めて500人規模の大園遊会を開催したそうです。その当時、外房線は「勝浦駅」までだったのを鴨川方面へ延長し、「鵜原駅」を造らせたことでも、その本気度が伝わってきます。しかし、関東大震災と世界大恐慌のために一大リゾート計画は実現しませんでした。


鵜原理想郷の「大木台」にある「幸せの鐘」の前にて

 「鵜原海岸」が海水浴場として賑わっていたのは、日本の国が高度経済成長期のころですが、今ではその面影もありません。一番の良さは水質が良いことと遠浅の砂浜です。ここで3kmの遠泳を行い、身心を鍛える集団宿泊生活を実施している学校があります。私が勤務していた「東京学芸大学附属小金井小学校」です。現在は1000mに短縮されていますが、男子は赤い褌、女子は水着に腰紐をつけて継続中です。


鵜原理想郷から海中公園を望む

<地層の観察>
 鵜原理想郷の崖には、規則的な縞模様の地層が見られます。火山灰質の砂や溶岩の小石が薄い板状に何枚も重なっています。この地層の中から化石を発見することができます。一つは有孔虫です。数ミリメートルの小さな化石ですが、虫めがねで拡大すると巻き貝のような構造が観察できます。もう一つは生痕化石といって、ウニやゴカイなどの生き物が動き回ったり、穴を掘ったりして棲息していた痕跡です。



 
地層の観察はじっくり時間をかけること

<その他の見どころ>
 鵜原理想郷に隣接して、「勝浦海中公園」と「千葉県立中央博物館分室」/「海の博物館」があります。海中展望塔からはメジナやイシダイなどの天然の魚を見ることができ、博物館では磯の生き物観察や海のクラフトなどを体験できます。

<勝浦朝市>
 300年の歴史がある朝市は早朝から11時頃まで開いています。東京駅9時発の特急「わかしお」に乗ると、「勝浦駅」には10時半に到着するので、できれば新宿発7時頃発の「新宿わかしお」の利用をおすすめします。今回は野菜や干物を売っているお店が何軒か開いていました。


300年の歴史の「かつうら朝市」

 干物屋店先に小さな法螺貝が入った籠が置いてありました。「あげるから持って行ってイイよ」と声をかけられ、「漁の網に入ってくるんだよ。

ボウシュウボラっていって、食べてみれば身が大きくて美味しいよ」。1個108円の値札が付いていましたが、貰える物は遠慮なく貰うことにしました。ちょっと気が引けたので鰺の干物を3枚買うことにしました。お店の人との会話を楽しんでいると、買わなくてもイイものを、ついつい買ってしまいます。

<勝浦港・市場食堂「勝喰(かっくら)」>
 お昼ご飯は勝浦港の市場食堂「勝喰」です。今日のお目当てです。1~2時間待ちが当たり前のお店なので1ヶ月前から予約しておきました。今日のお勧めは「初カツオの刺身定食1,200円」と「勝喰丼1,000円」です。海鮮丼はご飯の上にお刺身が乗っているのが普通ですが、こちらのお店では冷たいお刺身は冷たい状態で食べて貰いたい主義でお皿に盛りつけて出て来ます。カツオの刺身とマグロの「なめろう」が大きなお皿にてんこ盛りでした。写真を見て頂ければ、その圧倒的な豪華さが分かって貰えると思います。


大きな窓から勝浦港を眺めながら昼食

 海の幸にはお酒が付きものですから、地酒の「東灘(あずまなだ)」も注文しました。「西の灘」に対して、「東の灘」として勝浦の海の幸にぴったり合うと説明がありました。端麗ですっきりした飲み心地で美味しかったです。
 勝浦港はカツオの水揚げ量日本一です。港には最新型らしい三重県の漁船が3艘停泊していました。清掃作業をしていた船員さんは東南アジア出身でした。「日本に来て10年くらいになる。お金になるから楽しい。船は15人乗りで近くの海で漁をしている。捕った魚はその日のうちに水揚げする」と、日本語でスラスラと応えてくれました。


勝浦港に停泊していた漁船

鵜原理想郷の夢の跡は今も



 千葉、房総半島は外房、太平洋に突き出た明神岬一帯は2㎞余のリアス式海岸に縁取られ、「鵜原理想郷」と呼ばれています。
海原を見晴るかす「大木台」にはモニュメント「幸せの鐘」が海を背に鈍色に光り、「鵜原島」を望む「毛戸岬」、断崖絶壁の「日鳳岬」、広い眺望が楽しめる「黄昏の丘」と続いて、「鵜原海岸」は、「日本の渚百選」にも選ばれた景勝地です。
 この人間臭い「理想郷」という名には、関東大震災で挫折した壮大な別荘地分譲というリゾート建設の夢が関係していたことを聞くにつけ、それにしてもなぜ、これまでほぼ当時のままの自然景観が残されているのか? 興味が湧きます。
 三島由起夫が短編「岬にての物語」で描いた「類ない岬の風光、優雅な海岸線‥‥」と形容したこの地を訪れ愛した画家や文人達は、世に紹介する労をとらず、知人にさえ漏らすまいとつとめている人さえあったとされていますが、案外そんなことも功を奏したのではと、勝手に想像しますが。
 さて、大木台から東に目を転じると、長く延びた「八幡崎」を背に海中展望塔が浮かんで見えます。このエリア・「勝浦海中公園」には水平線を眺めながら歩く海上道路が架かり、さらにこの夏には敷地内に大規模なレストラン&天然温泉スパがオープンの予定とか。少子化や若者の流出に直面している地元勝浦市の人口流入増加を目指す、これも現代のリゾート建設ではあります。
 木の間隠れに海を見ながら山道を下りると、ふと爽やかな甘い香りが。白い小花をたくさん付けたトベラの木があちこちで香っていて、砂浜近くの足元には白いハマダイコンの群生、ハマエンドウの紫色も目を引きます。初夏にはヤマユリも咲き香るという一帯の緑と前方の荒々しい断崖の対比に、光る海が印象的でした。
( 文と写真:横山 禎子 )



 
マルバウツギの花も ハマエンドウ
2023.04.22 20:54 | 固定リンク | フットパス
フットパス専門家講座 スミレ博士と歩く春の高尾山と植物観察
2023.04.09

[ 講師:日本植物友の会副会長山田 隆彦 ]


スミレの聖地、高尾山の裏道を楽しむ


4月9日(日)天気:晴参加者:16名



 高尾山、休日は特にすごい人出でケーブルに乗るのに長い列ができる。待っておれず、しかたなく1号路を歩いて登ることが度々ある。
 「みどりのゆび」では高尾山は2回目となる。前回同様、混雑をさけて、高尾山口から大垂水までバスを利用し、城山から日蔭沢へ抜ける人の少ないコースを選んだ。
 このルートはスミレの豊富なところでもある。例年、4月10日頃がスミレの見頃であるが、今年は2週間程花期が早く、既に咲き終わったものが多く残念であった。
 高尾山のことを少し話したいと思う。高尾山は都心から50㎞のところにあり、海抜600mである。奈良時代に開創された「高尾山薬王院有喜寺」があり、森が守られて来た。また、暖帯林と温帯林の境目にあることで植物相が豊かである。
 尾根を境に北斜面には、イヌブナを主とする落葉紅葉樹林が発達し、南斜面には暖帯系の常緑広葉樹林のカシ類、ヤブツバキなどが見られる。約1500種の植物が記録されている。高尾山で見つかった植物は約60種あり、スミレでは、タカオスミレ、アカコミヤマスミレ、シロバナヒナスミレがあげられる。


タカオスミレを観察する参加者

 目についた主な植物について触れたいと思う。
ニリンソウキンポウゲ科
 名前は「二輪草」だが、花が2個一緒に咲いていることは少なく、片方が蕾の状態であることが多い。中には3個もつけているものもある。キンポウゲ科には毒草が多いが、このニリンソウの葉は、加熱すれば毒性はなくなるので山菜で楽しめる。ただ、猛毒のトリカブトの葉とよく似ていて、毎年、誤食で事故が起きている。注意が必要である。北海道~九州に広く分布し、林縁や林内、草地にふつうに生える。


ニリンソウ

ニオイタチツボスミレスミレ科
 城山手前の急な登りに数株あった。香りを持ったスミレで、群生していると側を通ったときに甘い匂いがして、その存在がわかる。タチツボスミレとよく似ているが、大株にならず、花数が少ない。花は濃い紫色をして中心部の白色が目立つ。
もう一つの特徴は、花茎や葉柄などにビロード状の毛が生えていることである。また、茎の上についている葉は少し細長い楕円形をしているものが混じる。北海道(西南部)~九州の丘陵地で、明るくすこし乾き気味の林床や林縁に生える。


ニオイタチツボスミレ

アケボノスミレスミレ科
 ニオイタチツボスミレのあった急な登りに点々と見られた。地上茎のないスミレで、葉に先立ってピンク色の花を咲かせる。名前は、花の色を曙の空に連想してつけられた。北海道~九州の山地で林床や林縁に生え、少し乾き気味の林内に多い。


アケボノスミレ

タカオスミレスミレ科
 高尾山で見つかり名前がついたスミレ。ヒカゲスミレの葉の表面がこげ茶色から黒紫色になるもの。ヒカゲスミレの品種となっているが、花期を過ぎると葉の色は消え、緑色になり、ヒカゲスミレと区別はできない。タカオスミレを認めない研究者もいる。せっかく高尾山の名前のついたスミレなので、私はタカオスミレの名前を使っている。


タカオスミレ

フタバアオイウマノスズクサ科
 「京都加茂神社」の葵祭に関連する植物で名前はよく知られている。この葵祭ではフタバアオイの葉を冠や牛車などに飾る。徳川家の「三つ葉葵」は、この葉の図案化からのものである。花は3-5月に、2枚の葉の柄の基部に1個下向きに開く。花弁はなく、3枚ある萼片の上半部は外側に反り返っている。本州~九州の山地に広く分布する。


フタバアオイの花と葉

 高尾山は交通の便もよく、植物の豊富なところ、訪れる人は多いが、比較的安全なので、植物観察にはお勧めのところである。季節を変え種々の花を楽しんでください。(文と写真:山田 隆彦)

わくわく、ドキドキのスミレ観察会



 この度はスミレ観察会に参加させていただき、ありがとうございました。一日であんなにたくさんの種類のスミレに出合えるとは驚きでした。スミレ愛にあふれる山田先生をはじめ、参加者の方方にも、いろいろな植物をたくさん教えていただき、とても楽しく、充実した一日でした。今もニンマリしながら写真を眺め、余韻に浸っております。
◆最初にメモしたのはミヤマキケマン。ムラサキケマンの親戚みたいな花。


ミヤマキケマン

◆ツルには見えないツルカノコソウは、ほんのりピンクや白の小さな花が集まって、かわいい姿でした。
◆エイザンスミレは、最初は特徴的な葉だけ見せてくれて、進んでいくうちに花も見られるようになって、テンションの上げ方が絶妙。花を見たときは嬉しさ倍増でした。
◆這いつくばってクンクンしてみたニオイタチツボスミレ。匂いはわからなかったので、またいつかかいでみたいな。
◆小さくても大きくても、ちゃんと破れていたヤブレガサ。
◆衝撃の雄雌連携プレーで命をつなぐミミガタテンナンショウ。葉も斑入りのようなのがあったりして、いちいち立ち止まりたくなる植物でした。
◆並んで咲いていたマルバスミレ。白い花びらも丸くてかわいかったです。
◆ナツトウダイは面白い形の花が印象的。最初「ナットウダイ(納豆台?)」だと思い込んでおり、途中で「ナツトウダイ(夏灯台)」だとわかって笑っちゃいました。

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ナツトウダイ

◆青空をバックに、ワインレッドの花と黄緑色の新葉が映えていたミツバアケビ。
◆予想外にちっちゃくて、花びらがクルンと丸まったニョイスミレ。
◆最後の方でやっと会えて感動したタカオスミレ。葉が茶色がかっているのはカッコイイですが、これもUVケアなのでしょうか?
◆ヨゴレネコノメ、名前を気の毒がられて、きっとみんなに覚えられていますよね。
 これまでスミレの種類はタチツボスミレしか知らず、違うのもいろいろ覚えてみたいと思っていたところでした。この観察会でいっきに頭の中が飽和状態になりましたが、少しずつ復習して整理・確認中です。でもそんなことしてる間にスミレの花の季節は終わってしまいますね。早くも、また来年の春が楽しみです。
(文:玉置 真理子写真:山田 隆彦)
2023.04.09 19:58 | 固定リンク | フットパス