•  フットパス活動の記録

他のまちのフットパスをみてみよう お花見しながら神楽坂をてくてく歩く
2023.03.24
[ 講師:田邊 博仁 ]

外濠の桜並木のお花見と、
神楽坂の街の成り立ちを知る


3月24日(金) 天気:曇参加者:8名



 飯田橋駅から「外濠公園」の満開の桜を楽しみ、神楽坂の街の成り立ちをご案内しました。
 ホームの改良工事と建替えられた飯田橋駅西口駅舎(2020年)。3Fテラスからの「牛込濠」と満開の桜の眺めが素敵でした。牛込見附門跡で、神楽坂の江戸防御の役目をご案内し、桜並木の外濠公園を歩き始めます。


牛込濠


外濠公園を歩く

 外濠公園から「東京日仏学院」へ。今年、旧アンスティチュ・フランセ東京から元の名へ。神楽坂には、あちら、こちらに隠れた階段や坂があり、パリのモンマルトルに似ているので神楽坂が選ばれ、多くのフランス人が住んでいます。神楽坂が、「リトルパリ」とも言われる所以です。


東京日仏学院内

 いよいよ「神楽坂若宮八幡神社」から「若宮公園」へ。ここで、神楽坂のはじまりと名の由来、江戸、明治、大正から昭和への街の変遷のお話を。そして、懐かしい銭湯「熱海湯」の入口へ。芸子さんも通った粋な歴史ある銭湯です。熱海湯横の細い階段は、「熱海湯階段」、「芸者小路」、「フランス坂」とも呼ばれ、神楽坂で一番有名な階段です。ここを登ると見番に出ます。田中角栄氏の建てた家で、ちょうど「神楽坂まつり」の稽古の三味線の音が聞こえ、角栄さんのいろいろなエピソードをお話しました。


芸者さんも通った粋な歴史ある銭湯「熱海湯」

 せっかくの神楽坂ですので、花街の雰囲気のある割烹料理屋さんでランチをいただきました。午後は神楽坂の中心の「毘沙門天善國寺」のお参りから再開。
 神楽坂唯一の高層ビル「アインスタワー(26F)」の真下にある「寺内公園」で、神楽坂の花街の歴史のお話を。また、漱石の若いころ、ここでの若い芸者さんとの甘酸っぱい思い出のお話もさせていただきました。
 そして、いよいよ神楽坂の花街へ。有名な居酒屋「伊勢藤」は創業昭和12年。震災で焼け、昭和23年再建の古民家です。隣の「森戸記念館」内に「神楽坂おかみさん会」による神楽坂の歴史や文化の紹介コーナーがありますので、見学をさせていただきました。昔の芸者番付表が目につきましたね。


東京を代表する居酒屋「伊勢藤」

 「伊勢藤」をはじめ、神楽坂の歴史的建築物(築50年以上)の分布の様子。「兵庫横丁」から「本田横丁」、「かくれんぼ横丁」の古民家を廻りました。


(資料:「神楽坂花街における町並み景観の変容と計画
的課題」松井、窪田、日本建築学会計画系論文集2012年
より)


物書き旅館として有名な「和可菜」のある「兵庫横丁」

 神楽坂の花街をご案内後、メインの神楽坂をぶらぶら下りました。残念なことに昨年11月に甘味所「紀の善」閉店、解体工事が行われていました。
 また、名画座の「ギンレイホール」も、11月に閉店してしまいました。飯田橋駅へ戻り解散いたしました。(文と写真:田邊 博仁)


ご参加のみなさまと

地図だけでは分からない神楽坂



 心配した天気も解散まで降られずに済み、すごく楽しい一日になりました。飯田橋駅は五十年以上前に毎日電車で通過した所ですが、永い時を経て周辺の景色が想像とはまったく異なっていました。飯田橋駅舎、周辺の高層ビル、[外濠公園]など私共には初めての所という印象です。
 神楽坂は十年ほど前一度だけぶらぶらしたことがあるものの、記憶は曖昧でした。


飯田橋駅

 駅前の外濠公園で満開の桜を観て、公園を抜け外堀通りを渡り神楽坂へ、坂を少し登るとすぐ日仏学院で、傾斜地を実にうまく使っていて、洒落た建物だと感じました。
 二次元の地図では分からなかったものが、坂や谷や入り組んだ小路を歩くと三次元の景色になり、更に今回は説明を聞くことで、歴史的背景等の情報が加わって四次元の景色になりました。
 おかげで今まで気付かなかったものが見え、他の場所との位置関係をも意識しながら見ることができました。
 牛込の名の由来、田中角栄と芸者の伝説、北原白秋など多くの文人が住んだ街、執筆活動が行われたとする旅館建物、夏目漱石も原稿用紙を求め、しばしば立ち寄ったという文具店、牛込氏の城跡だった「光照寺」などいろいろ知りました。


熱海湯階段


割烹料亭にてランチ

 最も印象に残ったのは「芸者小路」といわれる熱海湯階段で、箱庭の中を歩いている感じがしました。
 また、私達二人だけではなかなか入れそうにない「割烹加賀」での昼食は、落ち着いた個室で、ゆっくりできて、とてもラッキーでした。
 調査と資料の作成から実踏、そして実施まで、ガイドをしてくださった田邊さんは大変だっただろうと拝察します。誌上を借りて御礼申し上げます。
(文:伊藤 英俊・民江写真:田邊 博仁)
2023.03.24 19:40 | 固定リンク | フットパス
フットパス専門家講座 我がまちのフットパスを再認識する
2023.02.18

成瀬尾根緑地と八幡平遺跡公園から


[ 講師:高見澤 邦郎・浅黄 美彦 ]

3つの尾根を歩いて、違った眺めを楽しみました


2月18日(土) 天気:晴参加者:19名


 相模平野に向かって多くの尾根と谷戸を伸ばす多摩丘陵。そのうちの鶴川や玉川学園あたりは我が“みどりのゆび”のホームグラウンドでもあります。今回は「地元/学園・成瀬エリア」の尾根道を歩きました。学園前駅南口改札に集合後、まず「瓊宝(ぬぼこ)山本宮」へ。遙か昔、抜剣(ぬぼこ)山神社は岡山の山里にあったが社殿も祭祀も失われてしまったという。「ぬぼこ」の漢字を変えて、1933年に、開発されたばかりの学園の地に遷宮されたそうです。社殿は拝殿の奥にあり、小さいながら朱塗りの立派なもの。


竹林の参道、ぬぼこ山神宮

 お宮からさらに登ると赤瀬川原平さんの自邸兼アトリエの「ニラハウス」。路上観察学会を一緒に立ちあげた建築史家・藤森照信さんに設計を依頼し、多くの仲間も工事を手伝って完成。「ゆとりと温もりの空間創出」が評価され1997年に日本芸術大賞を受賞しました(赤瀬川さん、数年前に亡くなられ、屋根のニラポット、今はありません)。


ニラハウス 右端は薪を使った茶室

 東に成瀬駅や町田駅方面への眺めが広がる学園の尾根を少し行き、玉ちゃんバス(地元も運行に協力しているコミュニティバス)に乗車して成瀬台バス停まで、「歩き」をちょっと節約しました。
 バスを降りて東へ10分、成瀬尾根(都県境にある)に取りつく。樹林の中の緩い上り下りを南に辿ること30分、草原の吹上緑地に到着(この一帯の保整備は地元の「守る会」の皆さんが)。富士や南アは霞んで見えなかったけれど、丹沢から奥多摩への素晴らしい眺望を堪能。


玉ちゃんバスは “ハーイあっこです” 一家がデザインされている。
作者(みつはしちかこさん)が学園地域の住人だったので


尾根の成瀬緑道をのんびりと歩く、
畑もところどころに


吹上緑地で記念撮影 町田市街と丹沢の山々を背に

 10分ほど下って成瀬街道沿いの、赤瀬川さんもよく行ったという「上海公司」でランチ。美味しくて(特に豚の角煮とデザートの杏仁豆腐が)、しかも安いと皆さん大満足。ただ、ランチが長引いて、乗るはずだった1時間に1本の神奈中バスに間に合わず、恩田川沿いを歩くことに(この道はお花見の季節になると、川面に映える桜が素晴らしく、市外からも多くの人が訪れる)。


サクラの名所恩田川緑地を歩く

 バス停「熊野神社」を右に入って「稲荷山遺跡」、そして「牢場遺跡(覆屋の中に敷石住居跡が保存されている)」へ。さらに北の尾根に取りつき、急坂の住宅地を上がって「八幡平遺跡」へ。以上3つの遺跡(集落跡)は1924年から翌年にかけて発見された縄文後期のもので、国の史跡にも指定されています。八幡平遺跡は2年ほど前に公園化されていて、横浜方面への眺望がなかなかのもの。


八幡平遺跡からの眺望

 「学園尾根」、「成瀬尾根」、「高ヶ坂尾根」と三方からの眺めを楽しみ、我がまちの魅力を再認識することができました。さて、これで今日のコースはほぼ終わり。「芹ヶ谷公園」を経て町田駅まで歩き、解散。約2万歩の長いコースとなりましたが、良い天気にも恵まれたくさんの方々に参加していただき、感謝。

(文:高見澤 邦郞・浅黄 美彦 写真:田邊 博仁)

我がまちの小径の先に合った別天地


 この地域で育って四十余年。その我がまちでフットパスがあるとお聞きし参加しました。
 良く知る道を歩き、見覚えある小道に一歩、踏み入ってみたらその先は未知の別天地でした。住宅地のはざまにそっと存在する成瀬尾根。緑豊かな小道から見える宅地開発の年輪の面白さ、山吹緑地からの丹沢山系まで一望のパノラマビュー。
 まさに未知との遭遇でした。町田駅も近い八幡平の縄文遺跡から、今度は歩いてきた我がまちが見渡せる絶景。最後は子どもたちで賑わう「芹が谷公園」で解散。
 古代から現代まで人が憩う我がまちの、未知の魅力に気づかされた1日でした。

(文:渡辺 信輔)


芹が谷公園・ひだまり荘のつるし雛飾り(写真:田邊)


本日のフットパスコース図(作成:高見澤)

2023.02.18 14:01 | 固定リンク | フットパス
摩丘陵の12古街道フットパス②
2023.01.08

京王堀ノ内から南大沢へ 大栗川に沿う大街道“古代甲州道”

[ 講師:古街道研究家宮田 太郎 ]

東日本最大の複合遺跡群が眠る尾根の道


1月18日(水) 天気:晴参加者:18名



 地域の古道・古街道を訪ねるフットパスシリーズの今回は、「古代甲州道」を2回に分けての開催でした(堀之内編~南大沢編、南大沢~多摩境編)。
このテーマは、だいぶ以前から様々な講座でも紹介してきたものですが、大栗川に沿う南北方向の古街道=「古代甲州道」は、自分の故郷・旧多摩村を通る道だけに、特別な想い入れもありました。ただこの道の名称は昔から地元に伝えられていたものではなく、個人的に研究上だいぶ以前から分類のために呼称し始めたまま今も使っています。
 ーーそもそもなぜ大栗川流域に、「多摩ニュータウン遺跡群」が集中するのか、その謎やロマンを解くことが出来るのも、またこのルートの特性に注目することに始まるのではないかと思っています。大栗川に沿うエリアには3~6千年も前の縄文時代の遺跡がほぼ全体に広く分布しており、その集中度は日本一ともいわれるほどに濃密です。故に当時のニュータウンがあったとさえ言われる重要な地域にあたりますが、多摩ニュータウン遺跡の約千カ所を数える遺跡があることは、やはり古来の「往来の道」なくしてはありえないことで、しかもわずか一カ所の小さな峠を越えるだけで、いとも簡単に相模野と武蔵野が結ばれるポイントが多摩丘陵にあることが重要な意味を持っていると思います。
 この峠こそが多摩境の「内裏峠(だいりとうげ)」であり、縄文時代以来、甲州や信州諏訪湖地方と多摩地方を「東西の道」としてつないだ「縄文黒曜石ロード」であり、古代~中世~近世を通じて相模野から武蔵野を通って東北地方へと続いた「関東における南北方向の交通ルート」としても大いに役立ったはずです。
 また古墳群や中世武士の時代の遺跡や史跡、伝承地が今も沿線に沿って多数確認できることからも、長く使われてきたことが想像できるのです。
 今回のフットパスウォークでは、いつものように①コースや見どころポイント、短い解説メモを書き込んだ現代地図②古道・古街道を黒丸点で入れ込んだ明治時代の地図③「遺跡や史跡情報」④「自分なりの解釈」をA3資料10枚程度にまとめたものを、当日資料としました。
 ちなみに本来「フットパス」は地図以外の資料を使わなくても構いませんし、また歴史の話を聞くというよりは、自由にあるがままの環境をゆったり散策することが基本です。ただ最近では自然環境や人の暮らし方に加えて、さらに詳しく地域の開発ストーリーや歴史全般についても知りたいと希望される方が増えてきています。後でもっと詳しく知りたくなった時のことも想定して、資料だけは毎回工夫し、要点を楽しくお話ししています。むしろ昔のことを想像することで、脳内にとても健康上良い効果が得られることを実感してもらいたいーーそんなふうにも考えています。それは、たぶん参加される皆さんや私の中の脳内に、「見えないものを見る・想像するはたらき」や「DNAの中の悠久記憶(祖先の時代から受け継いだ記憶)」を司る部分があって、それらが相乗的に響き合い、その結果、“言い知れぬ懐かしさ”のようなものを感じたり、大切なものに再び会えたような…そんな感覚(=sense of wonderの一種)が現れ始めるのかも知れません。これらもまたいづれ脳科学で詳しく解明される時が来ることでしょう。
 さて、今回(1月)開催の京王堀ノ内編は、まさに「京王堀之内」駅の名前が示すように、中世武士の館跡と、それを囲む家臣たちの屋敷跡や複数の堀があったかというロマンに包まれています。


京王堀之内のせせらぎ緑道

特に鎌倉時代の「吾妻鏡」寿永元年(1182)にも記された別所地区の「蓮生寺」は、源頼朝の父・義朝の護持僧・円浄坊が義朝亡き後に来住して築いた寺であり、源頼朝が田畑を寄進したこともはっきりと書かれています。


蓮生寺公園内の吊橋

 今回のウォ―クでは、皆さんと寺の前の発掘調査について、鎌倉時代の鍛冶工房跡や舶載の陶磁器類が数多く見つかったことも話ししました。私も、若い頃にこの辺りを聞き取り調査したり、何度も探索したりした当時は、未だ多くの里山が拡がるエリアでしたが、大変ワクワクしたもので。近くの「多摩よこやまの道」には解説版も設置し、陶磁器の画像も掲載しました。
 街道としては、小山田桜台の神明神社の高台を南北に通る「奥州古道」がこの寺の前を通っていたことや、大栗川沿いの古代甲州道筋に出ることによって、源氏の父祖の代からの拠点だった百草山や、武蔵国府・府中にも続いています。
 また大栗川が中流域の由木地区で上流側に二つの川に分かれるその分岐点近くには、No.107番遺跡があり、室町時代の大石一族の大規模な屋敷跡や、その下に眠っていた古代の役所?の遺構群や大量の木工製品が出土しています。そこに「古代甲州道」の伝馬の駅家があったことで「馬継ぎ➡マツギ(松木)」地名やその名前の武士団がいたのではないかという、以前からの私の考えもお話しさせていただきました。
 近くには八王子の恩方にある「小野田城」の一族と思われる人物の館跡伝説があり、また有名な「滝山城」を築いた大石一族の伝説地や墓もあります。さらに後方の都立大の丘にあった「古代甲州道・尾根ルート」をたどりながら、次回の多摩境の内裏峠に直結する「谷戸越えルート」の魅力についてもお伝えしました。今回はまた皆さんとこの壮大なロマンの面白さを共有できたものと思います。


「あそこが野猿峠で、後方に見えるのは秩父の大岳山かな?」
(富士見公園・展望台にて)

(文と写真:宮田 太郎)

二つの宝篋印塔と古代甲州道



 今回の多摩丘陵12古街道フットパス②は、「京王堀之内」駅に集合し、せせらぎの緑道を通って、別所・「蓮生寺」の方へ向かいました。蓮生寺は、源義朝が平清盛に倒された後、義朝の御持僧・円浄坊が草創、源頼朝がこれを厚く保護したといわれているそうです。境内には、宝篋印塔という4、5メートルほどもある宝篋印陀羅尼が納められた石塔があり、これを礼拝することで罪障が消滅し、苦を免れ、長寿を得るとされたそうです。境内の背後の「蓮生寺公園」は、自然豊かなフットパスになって、展望台や吊り橋もあり、気持ちよく歩くことができました。
 午後のフットパスで印象に残ったのは、松木浅間神社に上がる中腹にある松木七郎宝篋印塔とその横にある祠内の仏像でした。祠の扉は閉まっていましたが、一部破れているところがあり、そこから覗くと四段のひな壇にびっしりと古い仏像が並べられていました。宮田先生によると江戸時代後期のものではないかということです。
 なお、「松木(まつぎ)」が「馬継ぎ」に由来するとすれば、多摩ニュータウン№107遺跡の役所跡や工房を含む駅家の存在と考え合わせ、大田川沿岸に「古代甲州道」の存在が考えられるということです。また、大栗川に沿う道は、道志川の鼻曲がり鮎を献上の品として江戸へ運ぶ鮎街道でもあったそうです。
 そのほか、「大石宗虎屋敷跡」などを経て、最後は「八幡神社」の市指定天然記念物のオオツクバネガシの古木を見て午後4時頃解散となりました。
 先生は、予定のコースを歩きながら、古いお寺や神社、古街道などにつき、ギャグなどを交えながら、おもしろおかしく説明してくださるので、普段はなにげなく通り過ぎるようなところでも、とても印象に残り、楽しいフットパスとなりました。(文:太田 建夫)


南大沢八幡宮にて、本日ご参加のみなさま(写真:田邊)
2023.01.08 22:39 | 固定リンク | フットパス
他のまちのフットパスをみてみよう麻布十番てどんなまち?
2022.12.17

[ 講師:みどりのゆび]


麻布十番は六本木、広尾、しろがね、赤坂を繋ぐ

12月17日(土)天気:晴参加者:10名



 麻布十番は掴みどころのないまちです。外国人が闊歩するお洒落な通りと、普段着姿のファミリーが老舗店舗で買い物をする下町。大使館や高級住宅街と、川沿いに残る昭和レトロ街。
 幸運にも今回は、会員でかつて住民だったという桐澤宏さんにご案内をしていただき、本当に面白い地域だとわかりました。

 麻布十番の歴史には二つの流れがあります。一つは「浅草寺」に次ぐ古い名刹「善福寺」が平安時代に弘法大師によって開山され、それによって門前町が開けたことです。そしてもう一つは徳川五代将軍綱吉が麻布十番の南に白金御殿を建てたときに遡ります。このために古川の改修工事があり、普請のための人足場が古川の河口から一番、二番と割り当てられ、麻布は十番であったことで「麻布十番」となりました。綱吉といえば元禄時代、麻布にも建てられるようになった下屋敷に生活物資を運ぶ舟や馬の交通の拠点として麻布十番は栄え、商店街も発展したのでした。

 今回の麻布十番お薦めのコースです。
 コース:「麻布十番」駅→パティオ→鳥居坂→饂飩坂→芋洗坂→六本木ヒルズ→毛利邸跡→欅坂→桜坂→さくら坂公園→六本木高校(内田山)→南部小学校→麻布十番→暗闇坂→オーストリア大使館→阿部美樹志邸→一本松→西町インターナショナルスクール→がま池→中里長屋→大黒坂→麻布十番→十番稲荷→ランチ:満点星本店→善福寺→仙台坂→仙台坂上→安藤教会→麻布氷川神社→有栖川公園→「広尾」駅


毛利庭園の紅葉

 今回のコースは、古川一の橋の再開発予定地から始まりました。古川は渋谷川が渋谷区から港区になるときに「古川」という名称に変わるのですが、一の橋の崖下の川沿いに大正時代から残る銭湯や昭和風家屋など懐かしい風景が残っていました。


大正時代から残る銭湯

 麻布の謎は深いです。
 テレビドラマでもよくお目見えの「パティオ」にある赤い靴をはいた女の子の像。きみちゃんはアメリカに渡ったとされていましたが、実は結核で「鳥居坂教会」でなくなっていました。


パティオにある赤い靴の女の子きみちゃん像

 「ロア」のある六本木大通りも再開発が予定されています。私たちの懐かしい六本木の姿もなくなるようです。

 「六本木ヒルズ」の「毛利庭園」の赤紅葉を回ってけやき坂を「さくら坂公園」に渡ると、外国人街になります。昔の内田氏の上屋敷であった高台(内田山)から下って雰囲気ある暗闇坂へ。「オーストリア大使館」があり、「桐澤邸」はその向かい側にあったそうです。


オーストリア大使館前

 歴史的伝説の残る「一本松」、コンクリート製で昭和洋館建築の「阿部美樹志邸」、「元麻布ヒルズフォレスト」、「西町インターナショナル・スクール」などの高級外国人街。昔は武家屋敷にあった「がま池」、がま池が流れ込む谷間に残る昭和レトロの「中里長屋」。とにかく面白い。


元麻布からの六本木ヒルズ

 老舗レストラン「満天星」で洋食ランチ、老舗商店で買い物を堪能。昼食後は名刹「善福寺」で弘法大師ゆかりの「柳の井戸」、樹齢750年の天然記念物「逆さ公孫樹」、福沢諭吉の墓やアメリカ総領事ハリスの記念碑などなど、遺産だらけです。
 仙台藩の屋敷跡前の仙台坂上に上ると、坂が集積するこの尾根の頂点が麻布と広尾、白金の分岐点ということを実感。平将門の乱頃創建された「麻布氷川神社」、函館戦争に参加した外交官安藤太郎夫妻の自宅である「安藤教会」、そして「有栖川公園」を通って終点広尾駅に着きました。東京のフットパスの神髄をつくような面白いコースでした。(文:神谷由紀子写真:田邊博仁)


麻布十番思い出ある記


 中学から結婚までの年月を過ごした麻布。思い出の詰まっている街を歩きました。
 地下鉄「麻布十番」駅から十番商店街を進むと、「豆源」、たい焼きの「浪花家」、「更科そば」、「小林玩具店」など、古くから営業を続ける店も残る中、洒落たカフェなどが目につきます。しかし、地下鉄が出来て羨ましい。なにせ昔は“陸の孤島”。バスしかなくて、朝早いと大きなザックやスキーを担いで六本木まで歩いたものです。十番通りから右折、鳥居坂を登ります。「国際文化会館」、「東洋英和女学院」は、その先の「鳥居坂教会」と共に、一帯の落ち着いた雰囲気を保っています
 六本木を経て訪れた「六本木ヒルズ」は正に新しい地域、と思いますが、開業は2003年とか。自分の古さを実感します。
 そこから麻布十番の方に戻って、暗闇坂を登ります。坂の右側の崖上、実家のあった一帯は、十軒位並んでいた家並みは姿を消し、大きなマンションに変わり、その上、崖の一部は削られていて「暗闇坂」は名ばかりの様相です。
 “逆さ公孫樹”…枝から多くの気根が垂れ下がる様子が、枝が逆さまに生えているように見える…で有名な「善福寺」は静謐を保ちながら、参道から見ると本堂の屋根越しに一寸(妙に)目立つ高層マンションが迫り、落胆の思いもあります。が、都内で「浅草寺」に次ぐ古刹を眺め続ける樹齢750年の公孫樹の姿は、ずっとそこに居続けて欲しいと願う私の気持ちを充分に受け止めてくれているようでした。(文:桐澤宏)


参道からの善福寺とマンション(写真:田邊)
2022.12.17 12:00 | 固定リンク | フットパス
フットパス専門家講座 多摩丘陵の12古街道フットパス① 八幡太郎・源義家が歩いた奥州古街道
2022.12.07

[ 講師:古街道研究家宮田太郎]

北海道の皆さんと歩いた中世小山田氏の馬牧跡と鶴見川水源地

12月7日(水)天気:晴参加人数:18名


 「今までに行った場所で、本当に一番の素晴らしいところでした。感動しました!」と、町田市小山田の奥州古道フットパス・ウォークに4人のお仲間(女性陣)を北海道から連れてきてくださった小川浩一郎さんから、とても嬉しいご感想をいただきました。北海道の全域のみならず全国、そして海外までフットパス遠征しておられる小川さんがそう思われた理由は何だったのか。もちろん、今まで行ったところで一番…というのは、全国で?関東で?いや町田近辺で?…そこまではお伺い出来なかったのですが、いずれにしても町田市域においての最良のコースである「奥州古道コース」。北海道の皆さん、東京・多摩・町田エリアから集まった皆さんと共に楽しめたことで、2022年を締め括るには最良の一日になりました。

 実は事前に発表していたコースは、寒中であることも考慮して八王子市の「京王堀之内」から歩く「古代甲州道」だったのですが、小川さん一行が来られるとお聞きし、急遽、多摩丘陵で最も古代・中世の風景や遺跡・伝承が残る唐木田・小山田コースに変更したのでした。ところが、連絡が不行き届きだったようで、北海道の皆さんは京王堀之内駅に来られてしまうというハプニングもあり、ご迷惑をおかけしてしまいました(お詫び)。幸い携帯電話ですぐに連絡がつき、双方の駅がわりと近いこともあり、タクシーで駆け付けてくださり、ほっとした次第です。


小山田緑地の奥州古街道を歩く

 コースは小田急多摩線「唐木田」駅南側に広がる「東京国際カントリークラブ」の中の古道跡へと進み、また唐木田駅に戻る約6Kmの行程。一帯は平安時代末期~鎌倉時代初めにかけて、鎌倉幕府の有力御家人となった小山田氏の居住地域であり、馬の飼育や調練のための流鏑馬(やぶさめ)馬場、馬駆けの道が集中するエリアです。


小山田氏の馬駆け場跡の一つ(地元伝承)

 小山田六人兄弟の三男の重成は、後に現在の川崎市麻生区や高津区一帯に領地を持って稲毛三郎と名乗り、北条政子の妹を娶り、源頼朝とは義兄弟でもある身内人となりました。小山田は彼ら兄弟が育った故郷でもありますが、それ以前の時代から京都から東北の仙台多賀城(陸奥国府)に続いた「奥州古街道(奥州古道)」のルートにもあたります。平安時代には東日本の荘園へと向かう西国の貴族たちや役人、僧侶が往来。さらには東北地方で育てられた馬を朝廷に献じるための古街道でもありました。
 また、源頼義や義家(八幡太郎)が軍勢を率いて何度も往来した峠越えの長い道でもあります。その伝説は小山田地域のみならず、町田の木曽・日野市百草・府中市の大國魂神社周辺へと一直線に続くように残り、当時のルートを物語っています。
 また下小山田のゴルフ場内の切道しの地層には、当時の踏み跡も延々と続くかのように残されており、実はとても貴重な歴史文化財ゾーンなのです。


大久保台の小径は日差しも柔らかい

 フットパス当日はお陰さまで快晴となり、大妻女子大の隣接地にかつてあった棚原城跡を通る鎌倉道に入りました。農地との境目の垣根状の樹間から、まるで切り取った額縁の中の一幅の絵のような「鶴見川源流の原風景ポイント」があり、みなさまと遠くの相模大山や富士山を眺めました。タイムマシンに乗って平安時代に遡ったような景色に思わず歓声が上がりました。また、そこにある「多摩よこやまの道」の解説板の一つ「小山田氏物語の解説板」も私が想いを込めて作成したものなので、手作りの資料と共に紹介させて頂きました。


鶴見川源流の原風景ポイント

 その先の展望地=通称「語り部の丘(心温まる六部塚伝説や巡礼の道のロマンを語る丘)」では、巡礼街道(①宝暦年間の武相観音巡礼道②西日本と東日本の霊場や有名な社寺を巡る東西巡礼古道)のことや実際に見つかった石塔の話、鎌倉幕府の末期に行われた元弘の役(1333年)の古戦場の話、平安時代の奥州古道の人馬往来の踏み跡(切通しに残る古道遺構)、戦国時代の武田信玄家臣団の隠れ里のこと、小山田氏の居城や調練馬場跡(「都立小山田緑地・馬場窪」)、小山田小太郎の隠れ穴、武士と地元の乙女との悲恋伝


晩秋の小山田緑地の奥州古街道を歩く

説、太田道灌の陣城、下小山の鶴見川水源地…と、それは実に豊富な歴史に包まれた美しい風景が残るエリアを楽しみました。
 このコースは、自分自身も大好きなコースであり、毎年春や秋には必ず実施しています。また今年も皆さまからのご要望があればぜひ開催し、この素晴らしき歴史遺産風景をまた歩きたいと思います。(文と写真:宮田太郎)

初めてのフットパス


 初めてのフットパス、大変感激しました。石清水八幡宮で元服し、八幡太郎義家と称した源義家の話からこのツアーは始まります。平安時代末期の後三年の役で奥州征伐を果たすも、義家の勢力を恐れた朝廷は義家に一切の支援をしなかった。にもかかわらず、義家は私財をはたいて部下の功を賞したことが坂東武者の信頼を厚くし、後の頼朝の鎌倉幕府創設につながる。義家が奥州征伐に向かったのが、奥州古道であったというのが今回のツアーのプロローグです。
 この奥州古道のある現在の町田・多摩・八王子一帯を支配していたのが横山一族で、その姻戚関係にあった小山田氏は、ここに城を構え、頼朝時代は大そうな勢力だったようです。ところが、世は執権北条氏の時代になり没落したものの、戦国時代になって武田信玄の家臣として再び活躍。そして、江戸時代から今日へと続く歴史を持った地が当地であります。
 私は2年前に町田(原町田1丁目)に越し、町田は新宿にも横浜にもアクセスはいいし、駅前はにぎわっている都心に近い住宅地という印象でした。今回このツアーに参加し、この地の歴史を学び、浅学を甚だ恥じ入るばかりです。宮田先生には、鶴見川水源地、古道断面露出、「大泉寺」、「小山田緑地」や「よこやまの道」等時々冗談も交えながら、説明いただき、その知識の豊富さには驚くばかりでした。次回、別の古道探索にもぜひ挑戦してみたいと感じた次第です。
(文:延吉良一)


アサザ池にてご参加のみなさまと(写真:田邊)
2022.12.07 12:00 | 固定リンク | フットパス