•  フットパス活動の記録

他のまちのフットパスをみてみよう 渋沢栄一の愛した飛鳥山
2022.04.09
他のまちのフットパスをみてみよう渋沢栄一の愛した飛鳥山

[ 講師:鈴木由美子・八田三枝子]王子・飛鳥山の今と昔を歩く

4月9日(土) 天気:晴参加者:11名


 2020年飛鳥山で【飛鳥山300年展―吉宗が作った江戸のワンダーランド】が開催されました。
 1720年は吉宗が初めてここに桜を植えた年です。後、楓や松を植えて景観を整え11年後に庶民に開放しました。「王子稲荷神社」、「王子神社」から「飛鳥山」にかけて茶店や料理屋が並び、多くの人たちが行き交い賑わいました。
 明治には渋沢栄一が住み、海外からの要人を饗し、徳川慶喜も訪れて写真に収めています。

スタートは「王子駅前公園」。ここから「装束稲荷神社」に向かいます。この公園は渋沢が製紙工場を作るため、石神井川まで来ていた千川用水をここまで引き池にした所。二つの川が利用出来た事もあり、渋沢はここ王子に製紙会社を作りました。「洋紙発祥の碑」があります。


王子駅前公園にて今日のコース案内(写真: 田邊)

 大晦日、関東一円の狐たちが「王子稲荷神社」に参詣するため榎の下で装束を整えた、と伝えられている「装束稲荷神社」は縁深い神社です。今は人間が各々狐の面を付け、【狐の行列】として「王子稲荷神社」まで初詣に向かいます。参加人数2万人。「装束稲荷神社」の太田南畝の句も面白いけれど、土産物店「ヤマワ」の壁面いっぱい
の狐の面は必見です。


広重画浮世絵
「王子装束ゑの木大晦日の狐火」


壁面いっぱいの狐の面(写真:田邊)

 「醸造試験所」は清酒の品質を高めるため明治政府が作りました。当時は酒税が全体の42%を占めていました。幕末には、ここは大砲製造所として反射炉が3層あったそうです。水車の動力で砲身に穴を穿つため千川用水を引いたが、一門も作られぬまま明治になりました。


旧醸造試験所第一工場(写真: 田邊)

『王子岸町の今昔』石鍋秀子さん作の絵地図は昭和初期の様子が分かり易い。
 今では石神井川は流れを三つに分け、二つは「飛鳥山」の下を通ってから合流して隅田川に流れ込んでいます。石神井川が、かっては不忍池に流れていたとは。


石鍋さんの絵地図(昭和7年頃)『北区史を考へる会』発行

 「飛鳥山」から西ヶ原にかけて多くの遺跡と2つの貝塚があるうち、「中里貝塚」は常識を覆す大発見だったとの事。ここは今もワンダーランドなのかもしれません。
 「飛鳥山博物館」の中で解散しました。
( 文: 鈴木由美子)


音無親水公園にて(写真: 田邊)


飛鳥山博物館にて(写真:田邊)

 豊かな水源の地、王子と近代日本の産業に貢献した渋沢栄一



 スタートは「王子駅前広場」。「装束・王子稲荷神社」・「北とぴあ」・「王子神社」・「音無親水公園」・「名主の滝」・「醸造試験場跡地」・「飛鳥山公園」と無事行程を終了した。
 振り返るに王子・飛鳥山は海食崖で、京浜東北線の線路を挟んで東側の大部分が東京低地、西側の大部分が武蔵野台地の東端本郷台地と二分されている。駅周辺は緑豊かな自然環境や文化資源があり、JR・地下鉄・都電・バス・首都高速道路などが集まる交通の要衝となっている。
一方でJRや幹線道路・石神井川などが駅前周辺の回遊性を阻害する要因ともなっている。また住宅密集地域における防災上の課題もあり、統一性のない駅前景観が機能向上の街づくり実現に向け、大規模な計画が進められている。
 石神井川の水脈の集まる古の水の都であったこの地は、良質の水を求めた中世の豪族・豊島氏の軍事拠点として発達し、豊島氏が紀州熊野より「若一王子神社」を勧請したことで王子の名が定着した。
江戸時代に入ると八代将軍となった吉宗は江戸城入城の際、紀州に因んで付けられた地名を目にした。そして石神井川による渓谷と飛鳥山、その地形に目を付け、紀州を偲んで周辺を整備させ、「飛鳥山」は桜の名所となった。
 豊かな水源に目を向けた鹿島紡績創設者鹿島万平、製紙会社の工場を建設し近代日本の産業の基盤を築き上げた渋沢栄一。しかし、水源によりもたらされた工業の発展で渋沢の愛する老松は枯れ、公害が嘗ての桜の名所を脅かした。その歴史を見守ってきた「王子神社」の大銀杏。
今回は変遷途中の王子・飛鳥山をご覧いただきました。グランドデザインで王子・飛鳥山はどう変わるのでしょうか。新たな景観を得た王子・飛鳥山にいつかまた来訪して頂きたい。

( 文: 八田三枝子)
2022.04.09 21:51 | 固定リンク | フットパス
フットパス専門家講座小金井国分寺崖線(ハケ)と小金井桜・多磨霊園
2022.03.27

フットパス専門家講座小金井国分寺崖線(ハケ)と小金井桜・多磨霊園
[ 講師:浅黄美彦]


多摩川が武蔵野台地を削ってできた国分寺崖線の魅力とは?
3月27日(土) 天気:曇参加者:9名

10時にJR中央線武蔵小金井駅に集合。駅前広場の地図を見ながら、小金井フットパスコースのねらい「大昔の多摩川が武蔵野台地を削ってできた置き土産、国分寺崖線(ハケ)の魅力と多磨霊園の楽しみ方」について、簡単に説明しスタートしました。

六地蔵と小金井の解説

黄金に値する豊富な水が出るから黄金井、そこから「小金井」という地名となったという。「六地蔵」のある深井戸からの水をいただきました。少し南に歩き、国分寺崖線に建つマンション「小金井スカイコーポラス」へ。ここでの見どころは、旧道沿いにある緩やかに曲がる「質屋坂」と小金井街道の前坂の直線の坂。


質屋坂

「質屋坂」を下って細道を東へ行くと小金井街道前坂をくぐるトンネルへ。ここを抜け、「はけの森緑地」に繋がる。街道の西側のマンションと東側の保存緑地のコントラストも面白い。
「はけの森緑地」から少し北へ戻ると崖下に「金藏院」がある。市内最初の小学校が置かれ、その後は小金井村役場としても使われていた。境内の枝垂れ桜が満開でした。


金蔵院での集合写真(写真:田邊)

さらにハケ沿いを東へ進むと「旧谷口家」、崖沿いにある旧家あるいは別荘か。細道を南へ下ると「小金井神社」。神社の奥には弓道場がある。


旧谷口家


小金井神社(写真:田邊)

さらに南に進むと「野川」。川に架かる朱色の欄干が美しい「天神橋」が見える。


野川と天神橋

「野川」からハケの小路を北へもどると崖沿いにある「はけの森カフェ」・「旧中村研一邸」に着く。斜面の緑地と湧水を守るための理想の家のような旧画家の家を改装したカフェで、ケーキと珈琲をいただきました。


はけの森カフェ・旧中村研一邸
1959年竣工設計:佐藤秀三

「野川」が流れる「都立武蔵野公園」で昼食をとり、午後は「東八道路」を越えて「多磨霊園」へ。
ここは大正12年に開園した日本初の公園墓地です。著名人の墓をいくつか巡り、園路、広場、軸線、ランドマークの噴水塔など、武蔵野の地形を生かした公園墓地を堪能しました。


多磨霊園:噴水塔

締めくくりは旧「多磨墓地休息茶屋」をリノベーションしたカフェ「ゆめたま」に立ち寄る。
西武多摩川線多磨駅(旧多磨墓地前駅)で解散。


旧多磨墓地休息茶屋

( 文と写真:浅黄美彦)


自然が豊かな国分寺崖線を堪能
入念な下調べに感謝


大変楽しい会に参加させて頂き誠に有難うございました。事前に詳細なご案内と地図をいただき楽しみにしておりましたが、実際歩いてみますと、興味深く見所満載のコースでしたね!
自然豊かな「はけの森」や小路、由緒ある神社仏閣では美しいお庭やめずらしい大木の枝垂桜も見ることが出来、野川縁歩きと共に、私には、一年分の木々や草花を楽しめた思いです。
また、お洒落なカフェで、ホッと一息和やかな時間を過ごせましたのもうれしい事でした。五感が潤う充実のフットパスになりました事は、事前の入念な下調べのご努力があってのお蔭と感謝申し上げます。有難うございました。
( 文:松本美津子)
2022.03.27 00:27 | 固定リンク | フットパス
フットパス専門家講座 生田緑地から明治大学登戸研究所資料館へ
2022.03.05

フットパス専門家講座
生田緑地から明治大学登戸研究所資料館へ
[ 講師:高見澤邦郎]


進化する田園地帯を歩き戦後の遺物に想いをはせる
3月5日(土) 天気:晴参加者:11名


勾配になっているマンサード屋根の駅舎は、ご一緒した浅黄美彦さん(今回も建築の解説を依頼)によれば、「北口駅舎(1927年につくられ最近改修)に倣って改築されたばかり」だそうです。南北にレトロモダンな駅舎が揃ったわけですね。


小田急線向ヶ丘遊園駅南口駅舎(写真:浅黄)

 駅から15分ほど歩いて「生田緑地ビジターセンター」に到着。展示をちょっと見て枡形山へ。木々の名前を確かめながら急坂をゆっくり登って広場に到着、展望台へ上りました(エレベータで!!)。良い天気でしたので西に富士山、東に筑波山の展望を期待しましたが、春一番とかで霞んでおり、新宿の超高層ビル群もおぼろ・・・・、残念。


枡形山の広場にて(写真:田邊)

中央広場に下って、昼過ぎに西口広場再集合と決め暫時解散。何人かは「民家園」を散策しつつ、移築された白川郷民家でお蕎麦の昼食。


合掌造り家屋の蕎麦屋で昼食


岡本太郎美術館/西口広場

「岡本太郎美術館」前庭の広場に再集合した後、ゴルフ場に沿って進み(少し降りて、また少し登って)、「明治大学生田キャンパス」正門に到着。


明治大学生田キャンパス正面(写真:田邊) 

ここは敗戦まで「陸軍登戸研究所」でしたが、明治大学が1951年にこの土地を取得し、理工学部・農学部を開設(校舎のいくつかは分離派*の建築家であり茶室の研究者としても知られた堀口捨己の設計)。
構内に一部残っていた戦時の施設が順次取り壊される中で、その記憶を残すべきとの声が高校生も含む地域住民からあがり、2010年に「明治大学平和教育登戸研究所資料館」として開館されることに。風船爆弾、偽札製造など当時の資料が展示解説されていて、種々の思いを抱かせます。

*分離派:1920年、東京帝大卒の堀口・山田など若き建築家6人がコンドル先生以来の西洋建築中心の教育を否定。世紀末のウィーンに勃興したセセッションを学び、新たな建築を求める<分離派建築会>を結成した。


明大登戸研究所資料館

明大の南通用門を出て少し行くと長沢浄水場(これまた分離派建築家の旗手だった山田守の設計/川崎市と東京都の浄水施設が共存)。
ここへは、相模川の水が津久井湖から多摩ニュータウンの尾根導管を経て来ています(笑い話:小山田の鶴見川源流の池にはこの導管からの漏水も流れ込んでいる?)。


長沢浄水場(写真:田邊)

浄水場の脇を通って今日最後の目的地、作家の「庄野潤三旧宅」の前へとたどり着きました。
庄野は1963年、畑と雑木林の山に一軒家を建てて「山の上の家」と名付け、東京練馬から移り住んだのです。『夕べの雲』など後期の数々の名作を書き、ここで生涯を終えることに(鶴川に住む河上徹太郎との交流も麗しく)。偶々長男の龍也さん(小説では明夫)が外出されるところで、言葉を交わすこともできました。
さてこれで本日の約10キロのフットパスも終了。
皆さん、三々五々、生田駅への道を下りました。
( 文と写真の一部:高見澤邦郎)


山の上の家(庄野潤三旧宅)

「登戸研究所資料館」を見学して



この資料館は、かねてから見学したいと思っていた場所です。風船爆弾がなぜ誕生しアメリカまで飛んだのか知りたかったので。
ところで夫は那覇生まれで、8歳のころ、米軍の攻撃を前に80km先の山原(ヤンバル)に疎開し、途中、ガマ(洞窟)で休んだり日本軍のトラックに乗せてもらったりしたそうです。そのくらいのことしか話してくれていませんが……(他方、戦後の母親たちの逞しい暮らしぶりはよく話してくれました)。漸く那覇に戻れたのは6年後だったとか……。幸いに家族はみな無事で。
夫は明治大学の卒業生ですが、自分の体験を思い出すので資料館には行きたくなかったのでしょう。ですので、私にとっては初めての見学の機会となりました。風船爆弾が数百個も米国本土に到着し、細菌兵器を積む計画もあったことを知り、またその他の展示品を見学して、このような歴史は、忘れたくても忘れてはいけないと思ったところです。
( 文:名城千穂)
2022.03.05 00:00 | 固定リンク | フットパス
フットパス専門家講座 麻布・六本木の昭和モダン
2022.01.09
フットパス専門家講座
麻布・六本木の昭和モダン
[講師:浅黄美彦 塩澤 珠江]


変貌する飯倉・麻布台あたりを中心に
都心部のフットパスを歩く

 1月 9 日(日)天気:晴 参加者: 10 名

今回のフットパスは、「我善坊谷」を中心とした飯倉・麻布台の都心部を歩きました。 折しも「虎ノ門・麻布台再開発」が工事中で、スリバチ地形の名所のひとつが失われつつあり、このまちの魅力や記憶を伝えたいという思いから、二人の講師が異なる視点からこのまちを案内してみようという企画です。
 塩澤さんは、生活者の視点から、昭和
24 年から38 年間飯倉に住んでいた思い出の場所を訪ねながら、飯倉・麻布台のまちを語っていただきました。
 浅黄からは、1980 年代の初めに「東京のまち研究会」で歩いた麻布台のまち歩きの視点(地形と歴史から都市を読む東京の空間人類学)から、麻布台のことを話させていただきました。


桜田通り歩道橋から見る「我善坊谷」

麻布の台地に東から西へ細長い窪地が「我善坊谷」、江戸時代に組屋敷(下級武士の住まい)として開発された。周囲の高台には大名屋敷が配置され、明治以降高台は、郵政省・外務省施設、華族の邸宅などに転換し、その裏手の窪地に庶民の住宅が立て込むという、典型的な山の手の景観を示していました。我善坊谷の消失風景を眺めることからフットパスをスタートしました。


飯倉の旧居(吉田謙吉邸)を語る塩澤さん

桜田通りから入る路地の奥、崖際にあった「吉田謙吉 12 坪の家」、今はビルの中にある敷地を眺めながら、崖を上って「聖アンデレ教会」に行ったこと、職人の家が多かった路地のことなど、飯倉の思い出を聞かせていただきました。
 高台と窪地を結ぶのが坂、今回はいくつもの坂を巡りました。その内のひとつ「雁木坂」。塩澤さんからは飼っていたヤギを連れて雁木坂まできたエピソード、私からは昭和初期に近くに住んでいた島崎藤村が、「大東京繁盛記」で雁木坂について書いていたことを話させていただきました。坂の途中、路地に入ったあたりに喫茶店があったと参加者の合田さん。散歩の達人富田均さん、陣内秀信先生も雁木坂の喫茶店に触れていたことを伝えました。現地を歩き語ることで、今はない喫茶店の記憶を留めることができたような気がしました。


「雁木坂」

 高台と窪地を結ぶのが坂、今回はいくつもの坂を巡りました。その内のひとつ「雁木坂」。塩澤さんからは飼っていたヤギを連れて雁木坂まできたエピソード、私からは昭和初期に近くに住んでいた島崎藤村が、「大東京繁盛記」で雁木坂について書いていたことを話させていただきました。坂の途中、路地に入ったあたりに喫茶店があったと参加者の合田さん。散歩の達人富田均さん、陣内秀信先生も雁木坂の喫茶店に触れていたことを伝えました。現地を歩き語ることで、今はない喫茶店の記憶を留めることができたような気がしました。


麻布永坂の高級住宅地に佇む「高峰秀子・松山善三邸」

 外苑東通りを越えて、「狸穴坂」に入る路地を抜けると「藤村旧居跡」、さらに「植木坂」を上ると 「旧ブリヂストン美術館永坂分館」、「旧石橋邸」、「高峰秀子・松山善三邸」と白い建物が続く、高級住宅地を味わうことができます。
 「行合坂」を下り、蕎麦の更科三家のある麻布十番で昼食、「布屋太兵衛」で二色蕎麦をいただく。


「和朗フラット(スペイン村)」

午後は東麻布の谷道にある「狸穴公園」から「鼠坂」、「植木坂」を上り外苑東通リに出て西へ進むと伝説の イタリアンレストラン 「 キャンティ」 。その脇の小道を下り突き当りに「和朗フラット」が建っている。台地の中のちょっとした窪地にスペイン村と呼ばれる不思議な一画がある。もともとは大名屋敷で、昭和の初めアメリカ帰りの農業技術者上田文三郎が、西海岸で目にしたコロニアルスタイルに魅せられ、この土地を取得し、大工と相談しながら自らが設計し建てたという。コロニアル風の外観と日本の伝統的な長屋形式のプランのアパートが生まれた。まさに昭和モダンでした。

 紀州徳川家屋敷跡に建つ麻布小学校横の「行合坂」を上り六本木一丁目へ。かつての「住友東京別邸」、荷風の「偏奇館」のあった尾根道を東へ歩き、解体中の「ホテルオークラ新館」を残念がりつつ、新しくなったロビーで休み 「汐見坂下」の公開空地でゴールとし解散しました。
(文と写真:浅黄 美彦)

原風景はカケラになれども

 1949年、舞台美術家の父 吉田謙吉)が設計した 12 坪の家は、片流れの屋根に赤いペンキ塗りの外壁で、小さな舞台があった。戦前の閉塞感から開放された演劇人や画家、作家たちが毎日集まった。「雁木坂」を登り、郵政省、ソ連大使館を横目に見ながら麻布小学校に通う私はそんな大人たちの間で暮らし、結婚し、娘二人を育てた。
 1988年、都市開発の波がおし寄せ、我が家は町田へ。その飯倉を 33 年ぶりに歩いた。「芝給水場(通称水道山)」の崖下に建てたわが家はビルの一角になっていたけれど、水道山はカケラになって残っていた。子どもたちが台所の窓から出入りして、草花をつんだ山。八幡様の盆踊りでは父が太鼓を打った。「聖アンデレ教会」のバザーには外国人のピエロがやってきた。妹は「聖オルバン教会」で挙式。3系統の都電がゴトゴトチンチンと走る飯倉片町の交差点は、登り坂と下り坂が合流する不思議な地形で、脱線事故も起きた。我善坊町に住むお産婆さんを呼びに走り、姉弟たち 4 人をとりあげてもらった。カケラが次々と語りかけてくる。



謙吉手描きの引っ越し挨拶状
水道山も描かれている。

(文:塩澤珠江)
2022.01.09 21:47 | 固定リンク | フットパス
フットパス専門家講座 成城学園と玉川学園
2021.12.05
フットパス専門家講座
成城学園と玉川学園
[講師:高見澤邦郎]


小原國芳が種を蒔き育んだ
二つの住宅地を訪ねる
12月 5 日(日) 天気:晴 参加者: 20 名

 小田急線成城学園前駅から南に数分、長崎の「二十六聖人殉教記念館」を設計した今井兼次による教会へ。日曜ミサ中だったので見学はせずに西に歩き、「こもれびの庭市民緑地」へ向かいました。世田谷区は土地所有者から委託を受けて公開する市民緑地制度を活用し、多くの緑地を整備していますが、ここはその代表例です。
 小原國芳(1887 1977) は鹿児島県の出身。苦学して京大を卒業し教師となり、時が経って成城高等学校の校長に就任しました。 1926 年、砧村に校舎を移すとき、借金して取得した土地の一部を分譲地として売り出してその収益で学校建設費をまかなうという、デベロッパー的センスを発揮しました。しかし成城での学校経営に限界を感じ、多摩川を越えた町田に、成城と同じく借金&宅地分譲で資金を調達し、理想とする「全人教育」を実践する場として玉川学園を創設したのです。
 今回は、この、小原がつくった二つの住宅地を歩いて、それぞれの町並みを見つつ両者の違いも観察しようとの意図のフットパスです。


「成城カトリック教会」
1955 年今井兼次設計

 小田急線成城学園前駅から南に数分、長崎の「二十六聖人殉教記念館」を設計した今井兼次による教会へ。日曜ミサ中だったので見学はせずに西に歩き、「こもれびの庭市民緑地」へ向かいました。世田谷区は土地所有者から委託を受けて公開する市民緑地制度を活用し、多くの緑地を整備していますが、ここはその代表例です。


のびやかな「成城三丁目こもれびの庭市民緑地」

 成城の住宅地は武蔵野台地上の平坦地にありますが、西の野川、東の仙川に向かって崖(ハケ)が落ち込む地形。野川のハケに向かう「どんぐり坂」を下り、「なかんだの坂」を登って再び台地上に。北に進み小田急線トンネルの上にある「アグリス成城」という名の貸し農園の脇を通りました。賃料が高いせいか以前の賑わいはない様子。その先の「旧山田家住宅」の庭から崖線の「みついけ緑地(非公開)」を覗いて東に折れ、「旧猪俣邸」へ。吉田五十八設計の近代数寄屋と庭園を見学。


アメリカ風の「旧山田家住宅」


「旧猪俣邸」
(財)世田谷トラストまちづくりが運営

 このあたりから成城学園の正門へ向かう道が「小原通り」でちょうど銀杏の黄葉が見頃でした。直行する駅前からの桜並木が「澤柳通り」。このあたりがこの街のハイライトでしょう。
 「緑陰館(柳田國男邸跡)」、そして道路の向かいの「丹下健三邸跡」を通り学園正門へ。学園へは入らず駅へと向かい、午前の部は終了しました12 時ジャスト)。
「各自昼食後の13 時半に玉川学園前で再集合」と約し、一旦解散。


「小原通り」銀杏の黄葉が見事

 午後の部はまず、新装なった「玉川学園コミュ二ティセンター」の会議室で、成城と玉川学園住宅地の資料を配り 30 分ほどお話(高見澤が)。「台地とハケの成城、谷戸と丘の玉川という地形の差違、そして戦前に半分ほどは家が建った成城と、土地は売れたが戦後まで人はあまり住んでいなかった玉川という歴史の差違、これらが今日の街の様相を大きく異ならせていると思います」と。
 さて5 分ほど歩いたところの、子ども広場・ディケア・集会所・保育所などが集まる高台へ。これらは、 1950 年代の木造平屋都営住宅が建替えられるに際して、 2000 年前後につくられた施設群です。子どもやお年寄りをはじめ、地域住民の、まさにセンターとなっています。

高台の「3丁目こども広場」は市民が管理している

 そこから‘‘鉢巻き道路‘‘(丘の上の方をぐるりと廻る)を歩くと、もと、遠藤周作が、みつはしちかこが、赤川次郎が住んでいたあたりで、丹沢の見えるこの街らしい一帯に。そして林雅子設計のアトリエ住宅を見た後、商店街通り(駅前通り)に降り、踏切を渡って東側に移りました。
 こちらにもはちまき道路があり、いくつかのギャラリーもあります。この街には普通の住宅の一部を使って手作りのアクセサリーとか陶芸とかを飾ったり、作家を招いて小さな展覧会をしたりといった「小さなギャラリー」が、そう、 20 ヶ所くらいありましょうか。以前は季節ごとに会期を同じくして開くイベント(例えば「雛めぐり」)があったのですが、オーナーさんの高齢化などで中断しています。


 「ギャラリーわおん」さんは道沿いに賑やか

 そして鉢巻き道路から谷戸に降りてまた上がって 。少々息が切れましたが「多摩丘陵の谷戸の街、玉川学園」の雰囲気は十分に味わえたと思います。最後は階段(長く住んでいる作家の森村誠一さんが「天国への階段」と名付けた/いや、「地獄への階段」だったかな)を上がり、玉川学園キャンパス入口の玉川池にたどり着いて今日の行程は終了。


最後の登り、天国?への階段

初めて参加された方も加え総勢20 名。コロナが収束に向かいつつある雰囲気もあってか、多くの方々においでいただき、ありがとうございました。
また淺黄さんには、建築の解説などお世話になりました。
(文:高見澤邦郎 写真:高見澤・田邊)

初めてのフットパス
(成城学園と玉川学園)


講師のお一人浅黄さんは、私が学生時代からお世話になっていた、まち歩きの先輩でしたので、声をかけていただき、今回初めて参加いたしました。私は、この3月で定年退職して、4月から学び直しをしていますが、久しぶりに時間をかけてじっくりと、まち歩きをさせていただきました。午前中の成城の住宅地は、木々の成長とともに、どの建物の佇まいも落ち着いていて、「一日中ここにいたい」と思ってしまいます。
 玉川学園の住宅地を歩くのは初めてでしたが、「みどりのゆび」の名の通り、ゆびさきの地形をなぞるように、何度も鉢巻き道路のアップダウンを繰り返しました。
 目の前の緑豊かな住宅地と、坂を見下ろしながら見える遠くの景色を交互に見比べていましたが、なかでも、個人のお宅の前に設置されている「近所の本棚」は、ひらかれた街の象徴のようで、それぞれ工夫された佇まいは、写真を撮らずにいられませんでした。
 午前と午後でかなり歩きましたが、皆さんと一緒に話をしながらまち歩きができて、本当に楽しかったです。また、よろしくお願いします。
(文:曽我浩)
2021.12.05 23:27 | 固定リンク | フットパス